天理教教祖殿逸話篇


「この物種は」

慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、 「神床の下に納めてある壷を、取り出せ。」と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びになった。そして、お聞かせ下されたのに、 「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう。」と、仰せになって、その壷を下された。そして、更に、 「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで。」と、お言葉を下された。 そして、その翌日、このお礼を申し上げると、 「これは家の宝や。道の宝やで。結構やったなあ。」と、お喜び下された。 これは、永代の物種として、麦六升、米一斗二升、小遣銭六十貫、酒六升の目録と共に、四つの物種をお授け下されたのであった。それは、縦横とも二寸の白い紙包みであって、縦横に数条の白糸を通して、綴じてあり、その表にそれぞれ、 「麦種」 「米種」 「いやく代」「酒代 油種」というように、教祖御みずからの筆でお誌し下されてある。教祖が、この紙包みに糸をお通しになる時には、 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながらお通しになった。お唱えにならぬと、糸が通らなかった、という。これは、お道を通って不自由するということは、決してない、という証拠をお授け下されたのである。 註 六十貫は、当時の米二石七斗、昭和五十年現在の貨幣九四五〇〇円にあたる。

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