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第11号 - 25


このたびのなやみているをやまいやと
をもているのハこれハちがうで


Konotabi no nayamite iru o yamai ya to
Omote iru no wa kore wa chigau de

今回悩んでいるのを、普通有り勝ちの病気だと思うているのは間違いである。こればかりは、病気などと決して思うてはならぬ。これは、見抜き見通しの親神の自由自在の働きを現したいからである。、総註 明治五年陰暦六月十八日、櫟本の梶本家に嫁いでおられたおはる様(教祖様の第三女)が出直されたが、当時、梶本家には、十五歳を頭に当年生まれにいたるまで五人の子供があって、手不足勝ちで家事万端に就て種々の困難を感じていられたので、その後妻としておはる様の妹たるこかん様を懇望された。しかし、教祖様は、神意のまにまにこれを承諾されなかった。というのは、こかん様はぢばにいんねんある方であって、この方をおぢばに留め置いて、いつまでも親神様がたすけ一条の上に御用をおさせになる思召だったからである。(本号二八-三二及六九-七二註参照)然るに、側々の勧めもあり、且つその困っておられる有様も、見ているに忍びなかったので、当時戸主であった秀司先生及び本人のこか.ん様も、遂に人情にほだされて、梶本家へ赴かれた。しかし、神意のこう遠は人意を以て計かり難く、その後、明治八年こかん様は身上に重いお手入れを受けられ、益々容態が悪くなったので、ここに初めて神意の厳として動かすべからざるを悟られ、遂に意を決し病を冒して教祖様の許へ帰宅されたが、時あたかもお屋敷の門屋新築の件に閑し、教祖様が奈良監獄へ二十六日から三日間御苦労下ウれたのを合図立て合いとして、そのお留守中の陰暦八月二十八日三十九才を一期として、遂に出直された。教祖様は、その日監獄からお帰りになってこれを御覧遊ばされ、暫し御愁傷の態であったが「お前は何処へも行くのやない。せみの抜けがらも同じ事、魂はこの屋敷に留まって「る。またこの屋敷に生まれ帰って来るのやで。」と、さながら生ける人に物言う如く微笑やかに仰せられたという。(第九号三六-三九註 参照。)

You are thinking that the suffering at this time is from illness,but the thought is wrong.

如今惱於身欠安 切莫當做疾病看
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