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第6号 - 105


いまゝでハやまいとゆへばいしやくするり
みなしんバいをしたるなれども


Imamade wa yamai to yueba isha kusuri
Mina shinpai o shitaru naredomo

~108註 今まで病気と言えば、すぐに医者よ薬よと心配したものであるが、病気というものは元来人々の心得違いを知らせて心を入れ替えさせようという親神様の深い思召しなのであるから、病気になれば、静かに反省して親神様の胸のうちを悟るようにしなければならぬ。薬では病気はなおるように見えても、その起こって来るもとである心は直らない。それでは、いつまでも親神様の意図に順う事が出来ず、人々の心が澄んで陽気ぐらしの出来る世とはならない。このように人間の心を直す事が親神様の真意なのであるから、親神様のお知らせは、単に身上にフみ現れるとは限らない。事情の悩みともなって現れるのである。この理を十分悟って、誠真実の心を親神様に受け取ってもらったならば、どのような身上事情の悩みでも救けて頂けるのである。それで、どんな難病で医者がさじを投げたような者でも、心次第で皆、いき、てをどり等のおさづけによってすきやかな御守護を頂く事が出来る。しかしながら、病だすけは親神様の意図を実現なされる一つの過程であって、究極の目的は心の入れ替えにあるのであるから、一方に於て医薬を用いる事は差し支えないが、何故病気になったかという根本の原因について、親神様の胸のうちをよく悟るように思案する事を忘れてはならぬ。元来医術と言うても、これは親神がこれまでに仕込まれた事であり、薬は親神様のお与えであるから、それを用いる時にも、親神様の御恩という事をよく思わねばならぬ。それであるから、教祖様は、医薬を不必要などと説かれた事はない。親神様のお心はもっと広く深いところにあるのである。根本の心の仕込みというところに眼をつけねば、親神様の御神意に添う事は出来ない。この理を取っ違えぬよう、親神様は「おさしづ」に次の如く、懇切にお諭し下されてある。明治二十三年七月七日午前十時半、前おさしづに基き願さあ/\難しい事は一っも無い、難しい事を言うやない。よう聞き分けにゃならん。どういう事もこういう事も、人間心を以て難しいように仕掛けて来る。何処そこでそら今やならん。元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。手余りを救けるのは誰も何とも言うまい。神さんに救けて貰うた、始め掛けのようなもの。めん/\通りよい処を通り難くうする。暫くという、一時難しい、どんならん、暫くの間が難しいてならん。第一道理上運んで置かねばならん。この理取り損いするからどんならん。この道から教会はあろうまい。規約々々という、教会規約一時運び切って出したる限りは治めにゃ。その道変えて皆め/\で、めん/\に抜けられぬようノ道を拵える。どうせこうせは言わん。一時治まって了う。さあと言えば直ぐに手順を運ぶ。暫くの間や。それさえ心得、皆んなそうかい、所々でおかしい風説、何かの処、取り決まって一人のために万人ほかして了わにゃならん。(天理教教義及史料集成部縮纂、「おさしづ」巻一、第768頁参照)いきは、いきのおさづけである。てをどりは、ここではてをどりのさづけの事であって、「あしきはらひたすけたまへ」のおさづけである。ここではこの二つをお挙げになったのであるが、その外にも「水のさづけ」「ぢきもつのさづけ」等がある。

Until now, when there was illness, you turned todoctors and medicine. Though all of you have worried.

至今患病皆心焦 只知依靠醫與藥
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