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梅谷四郎兵衞長女たか十才、左の目の上に一つの出来もの、とみゑ三才、右の耳及おとがいに、くさ出来しに付願

さあ/\何かの事情、事情無くては尋ねようまい。小人事情、どういう事であろう。よく聞き分け。小人の処、日々の事情、小人一つのあたゑ、何かの事情も思案々々、日々に思て暮らす処分かり難ない。日々事情という/\/\、小人幾何人の理を与え、何かの事も心に掛からんよう。長らえての事情、長らえての処、どんな日も通り、どうであろう、どういう事であろうという道も通り、今の処通る処と思案せ。小人の処、心治まらんと忙しい/\という。さあよく聞き分け。今の一時小人の事情という、日々の処という。急がしいと言えば急がしいやろう。小人事情から思えば治まらん。何にも心掛かり無いよう。小人という、小人一つの心なれば、小人三才の心というものは、何にも心に掛けんものや。三才までは何にも分かり難ない。小人一つの心に思うて、すうきり心に思わんよう。さあ/\暫くの処、何にも心に掛けぬようにして、日々の処暮らすよう。日々の処、小人の心治まらん処思案すれば、何かの事も治まる。
【説明】
梅谷四郎兵衛、船場大教会初代会長。 長らく信仰する間には、どんな日も通り、どうであろう、どういう事であろうと心配した道も通った。現在の境遇と既に通ったところを比較して思案してみよ。 三才の子供の心というものは、何にも心にかけないものである。三才までは何も解りにくいものである。子供の心のように思って、すっかり心に思わぬようにせよ。暫くの処、何にも心にかけぬようにして、日々暮らすようにという意味で、くさの出来たのは、生活難を心にかけ、くよくよする(くしゃくしゃする)ことなしにたんのうして通れ、ということを指示されたのであろう。 \n\n (1) 毎日々々の生活は、おぢばのご用と教会のご用と立て合うて、忙しいと言えば忙しいことであろう。しかしおぢばのご用をしている間は、理は一つなのだから、教会のことは心配しないように。三才の子供は何にも心配しないものだ。この子供の心のように、何にも心配することはいらない。
【摘要】
「くさ」については丁度症状が示すように、むしゃくしゃしている心の状態、即ちいんねんに心ひかれて、理一條に立ち切れず、不足勝ちでいるところを、あざやかに理の上から思案して、どこまでも理が立つようにつっぱって行けということを指示されていられる。 註 身上さとしは、親神天理王命の十全の守護の理が根底となっていることは、今更申すまでもないことである。”二つ一つが天の理”というお言葉は、本教的な物の考え方(理論)を最も端的に表現するものであろう。”二つが一つになる”なり方が、論理的にいって、非常に問題があるところであるが、本教では、”談じ合い”をもって、”順序の理”を経て、”一つになる”のである。この理論に基づいて、下図に示すように十全の対応の守護の理を理解するならば、皮膚についてのさとしが、それに対応する”つっぱり”の理合いによってなされている意味をよく納得することが出来よう。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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