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奈良平田郡長より中山会長を呼び出し、その談示には、江州高浜郡長より同地方にて、天理教会講社の者間違いな事をするにより、教会の事に詳しき者が来て取締りくれとの事に付、平田郡長添書を持ち橋本清出張の御許し願

さあ/\どっからどういう事を尋ねるも一時の事ではない。これまでにどんな事も皆々諭してある。どういう不都合と思う。尋ねる事が無いで。速やかなる道を知らしてこれからどっから尋ね、十分の道、世界どっから何を尋ねに来るやら分からん。尋ねに来るは容易な道でない。よう道を分けてやるがよい。

又伺、前川菊太郎か永尾楢次郎か、今一人共に出張の願
さあ/\談示十分の心、十分の理を談示。案じてはならん。出るも心置き無う。一代は生涯、生涯は末代心を持って行けば、どんな守護もする。悪い者は一つも無い。悪いという心を改めて、一つ/\治めて来るがよい。
【説明】
(1)滋賀県の郡長より奈良県の部長あてに、滋賀県下の本教講者の信者取締まり方を依頼してきたので、本部より初代真柱様の命より橋本氏出張の伺いさしづである。 (2)どこからどんなことを質しにくるかしれぬが、それは一時のことではない。これまでに、どんなことも諭してある。どういう不都合があったか。尋ねることがないで。 (3)今後世上のどこから何を尋ねにくるかわからぬ。尋ねにくるのは難問であろうから、そこをよくし分けて善処してくれるよう。 (4)十分の理を談示してこい。心置きなく行ってこい。生涯末代の理を作らせていただくのだ、という心で行くなら、どんな守護もする。もともと悪い者はいないのだ、相手が悪いのだというのうな心違いを改めて一つ一つ治めてくるがよい。
【摘要】
おさしづには出張、派出、巡教、巡回など、外へ出向いていくについての伺いが割合多い。出張に関しても対外的出張と対内的出張とに分けることができる。体内的とは教内・教会先々への出張である。  さて「教外出張」として扱う対外的出張でおさしづに多いのは、明治二十一年の東京仮本部設置に当たっての上京伺い、また神道本部局への出張、および明治三十二年より始まる一派独立運動のための出張である。ところで、ここに事例として挙げたおさしづは個々に、それぞれ問題点を含んでいるので一括して要約することは難しい。むしろ個々のおさしづに現れた、それぞれの神意を理解することが適当であると思われる。教外出張に当たっては、信者取締りもあれば、事件解決のための出張もあれば、地震や火事見舞いもある。  滋賀県下信者取締りに出向くに当たっては、生涯末代の理をつくらせていただくという心構えでいくよう(二二・一二・一四)仰せられ、濃尾大地震には、早く運べ、真実を受け取る(二四・十・三一)、伊勢火事見舞いでは、道の理は誠心よりない。誠心のつくし合いが肝心だ(三一・五・二四)と、心の持ち方を注意されている。  信者が拷問を受けた金山事件には、仇も皆神の子供であり、兄弟の中の刃物三昧で一人でも傷つく者を出してはならぬと告訴を中止された(二六・六・二三および二七)。  浪花新聞の本教誹謗に対しても、子供が物をほしがるようなもので、道の者は「明日やる拵えてやる心ばえ」で通るよう。そして元のぢばに元のをやが踏ん張っているから理が伝わるのであり、心配はいらぬ(二八・一・四)。橋本事件については「万人の中一人以て防ぐは神の力、神の理」と、親神の親心あふれる神意と、ご守護の絶大さを示されている。  所詮、人間は親神のふところ住まいをしているのであり、この世は神のからだである。  対外的難問題に対処する場合も、このことを心に置いて立ち向かっていくことが肝要であると思われる。

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