おさしず検索


教祖五年祭の件伺

(一)斎主は、神道本局稲葉正邦を招待致して宜しきや、又、中山会長にお願い致し置いたものでありましょうや願さあ/\話し掛けたら、話すであろう。まあ/\どんな事でも談示の上と言うてある。談示だけでは、これがよいと言えば又一つ、何にもそんな難し道を通るやない。まあどれから見ても、高い所はけなりものや。なれど必ずの理に持たぬよう。低い処より掛かれ。義理々々と人間心の理を立てる。人間心の理では、いずれ/\の理が出る。理が走る。どうする事も要らん。心だけの理は十分受け取る。大層の理は受け取らん。すっきり受け取らんで。

(二)正月二十六、二十七、二十八日の三日祭日の件伺
さあ/\その処は談示に委せる/\。心置き無う。三日なら三日の処、談示の上ならそれに委せ置こう。

(三)節会日限本年は御供えも少きによって、五日村方、六日七日両日講社としてお許し下されますや願
さあ/\一寸始め掛けた処、始め掛けた理は、変わさんがよいで。変わるというと、どういうものぞいなあと、世上の理が出る。無理にどうせいとは言わん。なれど変わらんよう。

(四)分支教会より五年祭当日提灯並びに名旗を樹立する件御許しの願
さあ/\心だけ/\。もう大層な事は一つも要らん。大層な事は受け取れん。頼もしいという理は、日々に受け取りて、日々に返やして行かんならん。大層は要らん。これだけ諭し置く。

(五)東京本局員篠森教正、五年祭に参拝すると言われますが、招待しても宜しきや願
さあ/\一人だけは一人だけの事情で運んでやるがよいで。招待はならん/\。今の道に招待をすれば、向こうもよかろ、世上もよかろ。なれど、よい事の後の思案をして置かねばならんで。
【説明】
(1) お前たちは、ともすると義理だ義理だと言って人間思案を先に立てるが、そんなことでは、ますます人間の義理に押し流され、いずれ行き詰まり、どうすることもできなくなってしまう。教祖の五年祭を精一杯に勤めようとする、その心は十分に受け取るが、世間体にとらわれての大義大層な考え方は受け取ることはできない。 (2) それは心ばかりのことでよい。大袈裟なことをすることはいらぬ。それは受け取れぬ。それよりも日々に積み重ねてゆく真実の心であって、その真実の心こそ神が日々に受け取り日々に返してゆくものである。だから年祭だからというて大袈裟なことをする必要はない。これだけ特に諭しておこう。
【摘要】
教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。

TOP


お道のツール