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日本橋支教会長中台勘蔵身上願

さあ/\身上の処に心得ん事情という。どういう事情と思う。話は長い。一つ/\の理を筆に留めてくれ。始め/\始めて一つの事情、第一事情成る成らん事情言うまでやあろうまい。いかなるも運び、一つ事情何かの理、元一つの理運ぶ処は十分の理受け取り、今一時どういう事情と思う処、元々成らん処を治めた処、又一つは分教会支教会という二つの理と思えども、元は一つ、初めは一つの理である。今一時分教会の一つの理を治める、又支教会の理を治めると思えども、皆同じ事情、いつ/\までも皆一つの事情、元々一つの理であろう。今一時身の処心得ん処、直き直き理を聞かした事は無い。直ぐ/\の理は未だ聞かさん。よう聞き分け。支教会と言えば一時の道の治め方によって支教会とも言う。なれど一つの理は分教会と言う。一つの理深きの理と言う。どちらも若い、こちらも若い。どちらもをやという理、をやの理を以て忘れてはならん。何よの理も治まる。元々始めた理は忘れてはならん、忘れさしてはならん。まあ二つの事情を一つの理に治めてくれば、何でも彼でもそれだけのこうのう。どちらも十分の道であろう。十分の世界であろう。
【説明】
(1) 中台勘蔵氏 日本橋大教会初代会長(幼名国太郎)。 このおさしづは日本橋支教会を東分教会から分離して本部直轄とし、日本橋分教会に引き直してやろうとの神意がうかがわれるおさしづ(東京教務支庁編「東京教区史・第一巻」参照、このほか日本橋の分離に関しては「東大教会史・第一巻」参照)。 (2) 分教会に引き直し分離することは初めてのこと。 (3) 中台勘蔵会長は東京に教会本部を設置した時から、その土地建物の買収などに十分ぢばにつくしてきたが、その理は十分に受け取る。 (4) この道はぢば一つの理から始められたのであって、東分教会、日本橋支教会と二つの理のように思うが、元は一つである。したがって分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (5) 支教会は一時の道の治め方として置かれたもので、皆分教会としての深い理があるのである。 (6) 親も子もお互いに、どちらも親という理を忘れず、もともと教会となった最初の理を忘れたり、忘れさせたりしてはならん。
【摘要】
現在、本部直属教会については「天理教協規規定」に、大教会ならびに本部が特に承認した分教会は直属教会とされ(教規第三十八条)、また大教会については部属教会数五十以上で、よふぼくのうち教人三百人以上を有するもの(一般教会規定第二条)と規定されている。  現在の教会の昇級分離は、上の規定に従い願い出によって本部から許されているわけであるが、おさしづをいただいた時代(明治四十年まで)は、親神の方から、その教会関係者の身上を通して昇級分離を促され、それを契機として願い出て許された場合と、教会の方から親神に昇級分離をお願いして許された場合とある。  明治四十年までに分離を許された教会は七ヶ所あるが(菅原村講は永神講から分離を願い出たがお許しなかった)、そのうち日本橋・湖東・甲賀・水口・大県は前者に属し、中和・島ヶ原は講社に属する。  が、元より分離についての心の治め方は、前者についても後者についても同様であって、以上八カ所(菅原村講も含む)について、おさしづから分離についての治め方の要点を求めれば、次のように考えられる。 (1)教会の昇級分離は、分かれるのであって離れてしまうのではない。この理さえ心に治まれば、いつまでも十分治まる。 (2)本部直属となる十分な教勢のないものを分離するのはいけない。分離を考えるよりも、元へのつくし運びを楽しみに通れ。 (3)教会は皆ぢば一つから許されたもので、部属の教会・信者も、その修理肥えはぢばからするのである。部属先々に花が咲き実がのるのは、元のぢばからの修理肥えがあるからである。 (4)この道はぢば一つから始められたものであって、分教会(直属教会)も支教会(部属教会)も元は一つである。 (5)したがって分教会も支教会も、その理は同じであって、分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (6)教会は皆分教会(本部直属)となる理があるのであって、名称の理を下ろした時から、この事情ははじめかけてある。 (7)分教会に昇級して、なおかつ分教会の部属のままにしておくということは許せない。分教会に昇級を許されたら本部直属としての他の分教会と同じ理がある。 (8)上級と部属が昇級分離事情について、お互いに気が合わんと言っているのは双方に人間心があり、めんめん勝手の心が出るから、うまくいかないのである。 (9)日が経ち月が経ってみたら、なるほどさしづ通りになったという日があるから、さしづ通りに治めよ。 (10)神の方からどうせこうせと言っても、皆の心が親神の心に添い、揃わなければならないから、よく談じ合いをして定めよ。 (11)どうでもこうでもという、みんなの寄った精神の理に昇級分離を許そう。一手一つが神の望みである。互いに心を寄せる頼もしい心の理が、末代の理となるのである。 (12)分離しても、これまでのお互いの道を忘れんよう、兄弟としての心をもって心をもって仲良く通ることが肝心である。

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