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山沢ミキノ日々大いに咳き且つ姉妹もよく咳くに付事情の願

さあ/\尋ねる事情/\、小人たる事情身の処に咳くという。どういう事であろう。前々以て一つという。他に一つどういう事であろう。急いだ処一つ又一つ、どういう事であろう。一寸よう聞き分け置かにゃならん。小人というは、何にも知らんが小人。咳いてどうであろう。又さしづと言うたらどういう事、三人咳いて願い。前前事情諭し置かんならんから知らす。小人たる治まる。後一つという。これ一つどういう事であろう。尋ねば一つさしづ。前以て何度に諭したる。心に早く治めよ。大抵これだけ十分という。よう聞き分け。今一時万事一つはそれからそれ諭し、一寸にはどういう事であろう。何が違うやろう。小人に諭したる。尋ねたらさしづして置かにゃならん。だん/\さしづ通りより治まらせん。難しい事そうせいとは言わん。どうでもさしづ通り運ばにゃならん。第一若き事情、若き事情はこれまで育て来たる。日々治まりたる。万事聞き、若き一代の理聞き分け。どんな事もさしづまでの理運んで、先々心で思わにゃならん。若きというは、心の勝手という。若い者は諭してくれ。嬉しいというはいつ/\まで。又々何かの処にこれだけというは一つという。そこで難しい。こうしたらこう、細こう諭さにゃならん。それが難しい。なれど親々の理から、随分諭されん事あろうまい。

若きと申しますはどの辺の事でありますか、押して願
さあ/\若きという、一代という、一代はこれからという。年々若き一代、こうして治めて、めん/\どうもせえ、こうもせえと言うて越して来たる処がある。こうして一寸治まりたら、それでも言う。何かの処どういう事もさしづして、こうならこう、日々という。一寸諭し難くい理である。なれど諭さにゃならん。そこで日々こうしてこうという。

若きとあれば、たまへの処でありますか、取り間違いしてはなりませんから、押しての願
さあ/\分からねば分かるまで尋ねにゃならん。一代という、これまでという、めん/\育て来たる処、これから先々寄り来る処は、いんねんという理以て。いんねん/\聞き分け。そこでどんな事も一つ清水治まる。日々の処という。治めりゃこそ治まるという。中にいつ/\という、一日の日の事情聞き分け。一日の日というは、万事心寄せる。一寸若いと言えば、めん/\心の勝手という理がある。そこで諭してくれにゃならん。知らん/\、分からん/\はどうも一時の処にては分かろうまい。よう聞き分け。辺所たる処、一つは事情、それ/\ともいう。これよう聞いてくれにゃならん。
【説明】
山沢みきの、本部員山沢為造息女。 おさしづ通りより他に治まらない。むつかしい事どうせとは云わない。どうでもおさしづ通り運ばなければならない。若い者は、勝手の心を使うから、若い者は諭してくれ。という意味で、咳は、勝手の心を遣うから、若い者は諭してくれ。という意味で、咳は勝手な心を遣いおさしづ(神意)にさからってはならないということを指示されたのであろう。 \n\n (1) 山沢ミキノ姉 本部員・山沢為造氏二女。 山沢為造氏・ひさ姉(梶本)の息女としては、さよ、ミキノ、さわ、まち、ひさのという姉妹がいる。咳の身上願である。 (2) どうでもさしづ通り運ばねばならない。若い者は、つい勝手の心を遣いがちだから、よく諭してくれ。勝手な心遣いでは自分らだけうれしいというのは、いついつまでも続くことか。万事につけて、これだけは許してほしいというのは感心できない。だから難しい。こうしたら、こうというように細かに諭してくれねばならぬ。親として子を育む立場から諭しができないということはあるまい。
【摘要】
咳というものは、呼吸が素直に行われない場合に出るものである。そして、急く場合に、咳く事が多い。こうした生理現象を考えると、咳をもって指示される身上さとしの意味がよく理解されるであろう。咳に関するものは多数あるが、大体左の如く分類出来る。(1)急かずに将来を楽しめーやたらにせくなー。(2)急いで事を運べーやたらにせけー。(3)勝手の心を遣わず、素直に神意に沿いきれー神意に逆らうなー。(4)たんのうし、先案じするな。(5)お互いに堰を造らずに談じ合え。『やたらにせくな』と『やたらにせけ』という正反対の例があるが、これは他の場合にも見られるところで、『身上さとし』に否定(積極)と肯定(消極)とがあることは、実際にさとすとき、十分に注意せねばならぬところであろう。 \n\n  後継者については、先に教会の項で取り上げた。しかし、そこでは教会担任後継者の選任について述べた。ここでは教会子弟ならびに一般子弟の後継者養成の問題について考える。  子供や青年子女を道のよふぼくとして育てるには、親あるいは道の先輩たる者は、どういう心遣いや通り方、導き方をしなけれならぬか、この問題についておさしづに現れた神意はどうであるか。この点に関するおさしづを検討すると、次のような点が強調されている。 一、 道の信仰は幼少より仕込む必要があること。 (1) 相応の年になってからは世間のことに心煩わす、そうなってからは信仰の道につきにくい。子供の時分から道の信仰にしむけていけば順序がわかる。信仰の根を養うようにしてもらいたい。 二、 導き育てる者の心がけ。 (1) 育てる者は真実の心がなければ育たない。親が怒っては子供は育たない。 (2) よふぼくに育てるには年限がかかる。気長に導いてもらいたい。それには修理肥えが必要である。 (3) 幼年・若年の者を粗末に扱うことなく、幼少の者ほど、わが子より大切という心で育ててほしい。言葉一つにもよふぼくを育てる力があるから、注意して導いてもらいたい。 (4) この道は一代の道ではなく、末代の道である。理の親子も、肉親の親子も、親となり子となるいんねんによってなるものである。 (5) 心の磨き合いに当たっては、義理や体裁で治めることはしないでほしい。低い心で人のことを、自分から先に立って行うひのきしんの態度が根本となる。 三、 導かれる者の立場。 (1) とかく若い者は未熟であり、勝手な心遣いをすることがある。親があるので子がある。という理を考えてもらいたい。親の理を忘れては道とは言えない。若者が神の話を知らぬようではならぬから、しっかり仕込んでおくことが肝心である。

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