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梅谷たね肩こるに付願

さあ/\身上尋ねる。事情一時どうなるこうなる。身上事情迫る、どういう事迫る。万事一つの事情、一日の日十分の理、十分の事、自由という。一日の処長い事情である。日々という、急がしいという。尽さにゃならん、運ばにゃならん。事情々々急がしい/\。急がしい時には、あちらへ走り、こちらへ走り/\、身上が一日の日、楽々の事情、一つ/\心身上が不足あったら/\何も出来ん。これしっかり聞かしてくれ。

同時、梅谷四郎兵衞身上願
さあ/\尋ねる/\、心得ん尋ねる。皆諭してある。どういう事も諭してある。いつ/\こう成ってやしき/\不思議や。一つ事情諭し、月々年々の事情、刻限一つの事情諭しある、皆諭しある。諭するに第一の道がある。第一の道というは、おめも恐れも要らん。
【説明】
梅谷たね、船場大教会初代会長梅谷四郎兵衛夫人。 日々いそがしいという中を、尽くさねばならん運ばねばならん。身上が不足あったら何も出来ないのだから、喜んでつとめなければならぬということをしっかりきかしてくれ。という意味で、肩のこるのは、尽くして運ぶことを重荷と思い、不足してはいけないと指示されたのであろう。 \n\n (1) 事情治めやおたすけに、あちらへ走り、こちらへ走るのは、さぞ忙しいことであろう。 しかし身体が丈夫であればこそ、どんな事情治めも楽々にできる。病気になったら何もできないのだから、心して勤めさせてもらうように。
【摘要】
肩は荷物を担ぐところである。たとえ困難な事情があっても、それは成人の道すがらとさとり、将来を楽しんで、苦労を苦労とせず、自ら進んで重荷をたんのうして担え、とさとしていられることは、肩の役割と関連して、よく悟らせていただかなければならぬ。一言にして肩のさとしは、尽くし運ぶことー理の実行ーについてのものであると云えるであろう。これは、肩は物を担う処であることと関連して考えなければならぬと思う。尽くし運んですぐ御守護が見えればよいが、むしろすぐ御守護の現れないことが多い。それが将来への伏せ込みとなるのであるが、その時人間思案で迷うたり疑ったりしていずむ。そこを一段と尽くし運ぶところに、その人の真実があり、真におたすけいただく道が開かれるのである。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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