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河原町部内小濱支教会破損に付事情願

さあ/\尋ねる事情/\、皆んなの事情は心という一つという、先々以て楽しみ一つ事情十分許したる。なれど何たる事情集まりたる、よう聞き分け。見るも一つ理であろ、聞くも一つ理であろ。世界事情聞き分けば一時分かる。これはどうであろ、これまでさしづ以てさしづと言う。何よ違ってあろ、何であろ、一時尋ねる処、事情又後々事情、先以て一つ事情、世界集まりたるなれど、大変難しいかろ。一つ改め替えて、一つ改め替えて何でも精神結び替えて一つ注意一つ、又一つ改め替えてすれば後々諭そ。所々理ある。一時は何たると思うは、それは理なれど、遠くという、遠国という一つ理、どんな事も見るであろう、聞くであろう。成らん事情すればたんのう一つ。これより精神一つ供える理なら受け取る。よう聞き分け。心に掛けるやない。思やんしてみよ。それ/\中に一つ道ありて遠くやあろまい、ほのかの事やない。どんな事でも改めるなら、又一つよう聞き分けば、何時なりと出るがよい。さしづして置こう。
【説明】
(1) 小浜支教会(現小浜分教会)の普請中、普請途上の建物が大風のため倒れたについて伺った時のおさしづである。 (2) 教会設立については、心を一つにして願い出て来たので、先々の楽しみの理として許したのに、皆が一手一つになれず、いろいろ人間思案からの事情が出て来ているではないか。 (3) これまでから、この道の通り方についてはさしづを持って諭しているように、今度の事情についても、お前たちはどこに心得違いがあったかと尋ね出てきているが、このような事情が重なるということは、多くの人が集まっていても勝手な人間思案ばかりであるから、一つ心になることが難しく、そのようなことから起こってきた事情である。そこで皆が、神一条の精神に心改め、しっかりお互いの心を結ぶことが肝心である。 \n\n (1) 小浜支教会の普請中、建設中の建物が大風のため倒れ、ついには会長の進退伺にまで発展した。その時に伺ったおさしづ。 (2) 言ったに何が違っているのか、どうしたのかと事情に思うであろう。普請というのは皆の心が集まってするのだが、大変難しい。そこで、もう一つ皆が一手一つになってするように注意したのだ。 (3~4)それにしても何ということだ、と思うのは無理もないが、遠国ゆえにどんなことも見たり聞いたりするであろう。どんな中もたんのうして通らせてもらうことだ。どんな中も通らせてもらいますという心なら、親神は、その心を受け取って守護する。心配などするな。
【摘要】
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。  そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。  そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。 \n\n (1) 建設中に教会が倒れるなどのふしがあっても、たんのうして、むしろ心を定めて通ることが大切。先には大きな楽しみの道がある。 (2) その他教会長を辞退したいという場合にも、よく考えることである。絶望的に見える事情にも、必ず解決の望みがある。 (3) そこで会長を辞職したいという場合には、代わる代わる足を運んで諭してやれ。三度までは説得に足を運んでやれ。 (4) そこまでしても、やめたいという場合には仕方がない、惜しいものだが。後任会長には丹精をつくしたものを運ぶ。 (5) 何かの都合で会長排斥運動などが起こったような場合、あくまでも元一日を考えて、天の理で治めることである。元々の理を捨てたなら、株たを捨てたようなことになる。 しかし、そのような場合、会長の方も人間心を混ぜ合わせていないか反省せねばならぬところがある。そして、あくまでも広く大きい心で育てることである。 (6) 会長辞職問題などが起こった時、上級教会などで心配するのも無理はない。しかし自分が病気になることを思えば大したことはない。 (7) このような問題に当たる時、何もない所から始まったのだ、ということを考えたら、必ず事情解決のご守護がいただける。また、どんなに見通しが暗くとも、必ず鮮やかなご守護がいただけるのだから、真実の心でかかれ。

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