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平野楢蔵江州へ出張願

さあ/\これまで/\皆んな何処へ出るも、遠く出るもさしづ以て許し置いたる。どんな難しい中でも、戻り来るまでにちゃんと治まりて来る。これさしづの理やで。どんな事でも尻を固めて来るが理。五年以前から見分けて、どんな怖わい処も、又又の理も治め来た。さしづ軽く思うからどんならん。又々の理は治めてやってくれねばなろまい。何しに来て居る。よう思やんしてみよ。水臭いようなもの、何ぼ大きな財産持ちでも、行こうと思うて行かれるものやない。寄せよと思うて寄せられるものやない。世界中の財産持ちでもいかん。遙々越すも出て来るも、長い間の苦労して居るも、何の道からぞ。これ聞き分けば、思案は要ろまい。何も彼も一日の日に変わる。

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さあ/\行て来るがよい/\。
【説明】
(1) 滋賀県地方の郡山部内島ヶ原の道は明治二十一年現彦根市高宮町に伝わって、明治二十四年五月高宮講社が結成されてからである。このおさしづは郡山初代平野氏が、滋賀県郡山部内先々へ巡教するに当たっての伺いである(「郡山大教会史・その一」参照)。 (2) これまで皆どこへ出向いて行くにも、遠くへ出張るにもさしづを伺い、さしづによって許している。さしづで許した以上たとえ、どんな難しい中でも出張より帰ってくるまでにちゃんと治まりがつく。これがさしづの理である。どんな事柄でも尻を固め、まとめてもらいたい。それが理というものである。五年前すなわち明治二十一年より親神はちゃんと見分けて、どんな怖いところも治め、また幾度も繰り返してきた懸案事項も治めてきた。神のさしづを軽く思うから困る。再三さしづして、なお懸案の事項は治めてやってくれねばならぬ。 (3) 道というものは、何ほどどんな財産持ちでも、行こうと思って行かれるものでない。人を集めようと思って人間の力で寄せられるものでない。すべて親神の働きがあればこそできるのである。はるばる遠方から出てくるのも、長い間苦労しているのも、何の道からであるか。教祖の苦労のひながたの道があればこそである。これを聞き分ければ今更、人間思案はいるまい。何もかも一日の日に変わることを承知せよ。
【摘要】
対内出張として ①本部より地方・分教会へ出張の場合 ②上級教会より地方・部内教会へ出張の場合 の二つがあり、①について前項で検討したので、②について考察した。  上級教会より地方・部内教会へ出張する場合、出張理由としていろいろの理由がある。  矢追氏が九州布教に出向く(二六・四・一九)場合のように、地方へ布教のため出張があり、清水氏が播州講社巡廻(二一・八・六)し、諸井氏が国々先々へ巡廻(二四・七・五)のため出向く場合のように、地方信者育成のための出張がある。また甲府支教会長事情に付、諸井氏が出張(二九・一二・六)し、北陸支教会治め方に付、平野氏が出張(三二・一〇・一二)したように、教会事情治めのため出張する場合がある。  このような種々の理由によって地方・部内教会へ出張するに当たって、出張員はどういう心がけで行くべきか、巡教員はどうあるべきか、についておさしづを検討すると、 (1) 取次人はをやの代理である。講元というのはこうのうの理を積んだ者をもって講元というのである。 (2) 親神は子供の陽気ぐらしを待ち望み、限りない親心にあふれている。取次人はこの親心を心として布教に、信者育成に、教会事情治めに出向いてもらいたい。 (3) おたすけに出向く際には、親神がついて歩くも同じことで、どんなことでも守護しよう。  以上は上級教会より部内教会への出張・巡回に当たっての心得であるが、これはあながち部内教会への巡教・出張にのみ言えるものではなく、すべての出張についても言えることである。  最後に、以上述べてきた対外出張・対内出張を通じて、全体の要約を述べると次のごとくになるかと思う。  本部より地方分教会へ出張する場合、また上級教会より部内教会へ出張する場合のいずれも、現在では「巡教」「修理巡教」という言葉を用いられているようであるが、おさしづでは出張・派出・巡廻・巡教という用語を用いている。ただし巡教という語を用いたのは少ない。  なお明治三十五年に十教区を置き、教区ごとに取締員を任命し管内監督に当たらせた。また明治三十七年に本部より地方分教会修理巡教のおさしづが出ている。この二つは本項「出張・巡教」を扱う場合に欠かせぬ重要な事情であると思う。しかし、この項では「全国に十教区を置く事の願」(三五・七・一三)および「十教区取締員の事情に就いては先々へ出張のお許し願」(三五・八・一〇)は、既出のため載せなかった。  対外出張・対内出張のすべてのおさしづに現れた親神の思召しは、次のごとく仰せられているようである。 (1) 人間は親神の懐住まいをしている。まず人間は親神の神意ー天の理を心に治めなければならない。 (2) 親神は「反対するも可愛い我が子」(二九・四・二一)という広大無辺な親心である。したがって、一方が立つだけでなく双方が立つよう、兄も育て弟も育てるよう(三五・五・一八)勤めてもらいたい。親心とは理に厳しい反面、情愛に厚い心であり真実誠の心である。 (3) 取次人はをやの代理である。一人たすけたら万人たすかるのである。おたすけ人には親神がついて歩くも同じことである。ついては取次人、おたすけ人は自ら心を澄みきらせ心を浚えることが肝心である。

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