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田原支教会長妻久保ナラヱ目の障りに付願

さあ/\尋ねる処/\、身上に事情いかなる事と思う処尋ねる。どんな話聞けば成程分かる/\。身の処心得ん事情と言う。何も余に思う処あろうまい。これから長い間、そこへ取り決まり、めん/\も事情改め、事情急ぐ。急ぐで。どんな事も長らえての間であるによって、聞いてどういう事も、皆代わりという理勤めんならん日ある。万事心得改め。皆改め。身の処案じる事要らん。案じる事要らんが、何か急ぐによって、伝えてくれ。内々掛かる。皆役員ある。皆たすけ一条という、皆改めて早く掛かりてくれるがよい。
【説明】
何も余分の事を思わずに、これから長い間教会役員が皆心をあらためて、たすけ一條にかかるという精神を早く定めよという意味で、教会の者が、たすけ一條をおこたり、いらんことを見て不足し合うことのないようにと指示されたのであろう。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。

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