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平野トラ身上よりおさしづに付、山瀬の子息外二名を教会へ入れる事願

さあ/\尋ねる事情/\、事情尋ねば一つさしづして置こう。どうでもこうでも伝う理、親という代、そのあと伝わにゃならん。尋ねるまでのもの。真実の理を見た限り、親のあと子が伝う。心無き者どうしようと言うて成るものやない。元々の理を伝わにゃならん。後々は二三年四五年という理を以て通れば分かるであろう。
【説明】
(1) 郡山大教会役員山瀬文治郎氏の次男好松氏(当時二十一歳)ほか二名が青年として教会へ住み込むに当たり願った。 (2) 真実の理を見た限り、親のあとを子が伝うて行くのは当然である。またどうでもそうなければならぬ。心ない者は致し方ないが、親が道を通る限りその子たちを二、三年あるいは四、五年と仕込んでやれば、またわかってくる。 \n\n (1) 郡山分教会役員山瀬文治郎氏の二男好松氏(当時二十一歳)ほか二名が青年として教会へ入り込むに当たり伺った。 (2) 親の代のあとを子が伝うのは自然であり、それは望ましいことだ。真実の理を見た限り、親のあとを子が伝うていくのは当然である。どうでもこうでも、そうなければならぬ。心のない者は致し方ないが親が道を通る限り、その子供たちを二、三年、あるいは四、五年と仕込んでやれば、またわかってくる。
【摘要】
親神の深い思惑から身上・事情にお手入れをいただき、道に引き寄せられ、更に一段の成人を望まれると、旬がくるや待ったなしに道一条にならざるを得ない。この道一条の具体的な形として、教会入り込み(住み込み)ということになる。  飯降伊蔵様はじめ、教祖のおそばにお仕えなされた道の先輩先生方は、はじめ道に引き寄せられて遠方から通われるうちに、だんだん道のご用も繁くなり、徐々におやしき入り込みとなられた方が多い。ここには、」その中のごく一部のおさしづを採録したに過ぎないことをお断りしておきたい。  さて伊蔵様は、元治元年入信以来おやしきへ通われた。 「丸九年という/\。年々おお晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来るものもなかった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\髄いて来てくれたと喜んだ日ある。」(明治34.5.25)  飯降伊蔵様は教祖から親子揃うて早くおやしきへ帰ってくるよう、たびたびお言葉をいただかれたにもかかわらず、道のどん底時代のこと、秀司先生ご夫妻への気がねもあり、親子もろとも移り住むことは教祖にご心配をかけることになるとて逡巡せられたという。しかし明治十四年伊蔵様の家族の身上障り(伊蔵様の腰痛、二女まさえ姉の眼、政甚氏のにわかに口がきけなくなった障り)によって、いよいよ心定めせられ、伊蔵様ご自身が櫟本を引き払っておやしきへ伏せ込まれたのは明治十五年三月であった。伊蔵様五十歳、おさと様四十九歳の時である。かくのごとく伊蔵様は入信以来二十年間櫟本から通われ、その後おやしきへ伏せ込まれることになった。本稿の「教会入り込み」事情の中には、伊蔵様のおやしき伏せ込みについては触れていない。  ところで、教会入り込み(住み込み)事情に関しては、 一、 おやしき入り込み 二、 地方教会入り込み の二つに分けることが出来る。また、教会へ入り込みをする立場の者と、それを迎える側の立場とある。  ここで前掲おさしづによって要約すると、次のことが言えると思う。教会入り込みにあたっては、 (1) 一つの理(親神様の思召)を心に治めること (2) 元一日を忘れず将来末代道のご用に勤めさせて頂くという決心を固めること (3) 住み込み人は理を積み重ねなければ、教会に置いてもらいたいと思っても置いてもらえないこと (4) おやしきに入り込ませていただく者は、どれほどの理がある者でも、ぢばの理が心に治まらねば駄目になること (5) 入り込み人を迎える立場の者は、一つの理(親神の思召)を心に治めてそだててもらいたいということ このような点を心して通るよう仰せられているよう拝察する。これは道一条を通る者の心すべき点、すなわちいんねんの自覚とその洗いかえ、まただめの教えたるゆえんを、よく心に治めるという点に帰するものであろう。(金子圭助) \n\n  後継者については、先に教会の項で取り上げた。しかし、そこでは教会担任後継者の選任について述べた。ここでは教会子弟ならびに一般子弟の後継者養成の問題について考える。  子供や青年子女を道のよふぼくとして育てるには、親あるいは道の先輩たる者は、どういう心遣いや通り方、導き方をしなけれならぬか、この問題についておさしづに現れた神意はどうであるか。この点に関するおさしづを検討すると、次のような点が強調されている。 一、 道の信仰は幼少より仕込む必要があること。 (1) 相応の年になってからは世間のことに心煩わす、そうなってからは信仰の道につきにくい。子供の時分から道の信仰にしむけていけば順序がわかる。信仰の根を養うようにしてもらいたい。 二、 導き育てる者の心がけ。 (1) 育てる者は真実の心がなければ育たない。親が怒っては子供は育たない。 (2) よふぼくに育てるには年限がかかる。気長に導いてもらいたい。それには修理肥えが必要である。 (3) 幼年・若年の者を粗末に扱うことなく、幼少の者ほど、わが子より大切という心で育ててほしい。言葉一つにもよふぼくを育てる力があるから、注意して導いてもらいたい。 (4) この道は一代の道ではなく、末代の道である。理の親子も、肉親の親子も、親となり子となるいんねんによってなるものである。 (5) 心の磨き合いに当たっては、義理や体裁で治めることはしないでほしい。低い心で人のことを、自分から先に立って行うひのきしんの態度が根本となる。 三、 導かれる者の立場。 (1) とかく若い者は未熟であり、勝手な心遣いをすることがある。親があるので子がある。という理を考えてもらいたい。親の理を忘れては道とは言えない。若者が神の話を知らぬようではならぬから、しっかり仕込んでおくことが肝心である。

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