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三重県警察署へ二度目行く事願

さあ/\尋ねる事情/\、前々事情諭したる。一度の処、一つ明らか事情尋ねる。一日の日、これより尋ね出る。どうでも一寸に行かん。順々の理磨き同じ理である。小そう取れば小そうなる。大きい取れば大き一つ事情、明らか事情、余儀無き事情、一時行かん。どうでもこうでもやらにゃならん中に、あれ/\たゞ一つの心を重々の理に、明らか/\より、仇々の者も皆神の子供、一軒の内、放蕩人ありて、内々の事情治めるに治められん事情となる。道に明らか、事情軽く低い処から掛からにゃならんで。一日の日、尋ねたる心、書き取って家々までの事情と言う。

さあ/\尋ねるであろう/\。道を以て尋ねる。掛かりという掛かり、一つの理である。低う行く。願わくは穏やかと言う。一時たゞ抑える、たゞ蹴る。低く、ぼつぼつの理を始め掛けると言うで。よう聞き分ければ鮮やかと言う。
さあ/\元々の事情、即座一つ始めて越え、こうすればこうなる、でも御座ると言うたら、その理から始める。

さあ/\その道を容易ならん。返す/\穏やか一つ、先ず/\の理が現われて来る。のうけは一寸に付かん事情、低い所から歎きというようなもの、それを明らかにもせんと言えば、だん/\高い所もあろう。ぼつ/\掛かって行かにゃならん。よう心得て行かにゃならんで。
【説明】
(1) 橋本清本部員と山田作治郎会長が、警察本部へ赴き取り調べを依頼したが、手島巡査を取り調べた様子がない。そこで再度警察本部へ交渉するか、場合によっては告訴しようとしておさしづを仰いだ。 (2) 仇の者も皆可愛い神の子供である。一軒の家でも、放蕩人がいるからと言って告訴するようなことをしては、内々治めるに治められん事情となる。このことは、道の上にとっても明らかである。事情は軽く低いところから、かからねばならぬ。 (3) 道の理をもって取りかかることが、元の理にかなう道である。それには、低く行くことである。告訴などしないで穏やかに行くことである。一時、訳もなく抑えられたり、蹴られたりするようなことがあったとしても、低く、ぼつぼつ始めかけて行けば、やがて鮮やかに治まる。 \n\n (1) この年五月二十七日、三重県南牟婁郡神志山村大字金山で、信者久保善兵衛氏(六十一歳)が有井村駐在所手島巡査に召喚され拷問を受けた。いわゆる金山事件に関する伺い。  なお明治二十六年六月五日南部分教会部下警官圧制一件に付願(「南海大教会史・第一巻」参照。ただしおさしづ公刊本には五月五日となっている)により神意を伺った。このときのさしづには、官憲であるからとて怖がる必要はない「三十日五十日といえど、明らか一つの理を分けにゃならん」と、理非曲折を糺し黒白をつけるようとの神意である。本部より橋本清氏と南海初代会長山田作治郎氏が津市へ赴き、警察本部へ出頭した。部長不在で拷問の一件の取り調べ方を依頼して帰った。ところが一週間余経っても取り調べた様子がない。ついては再度警察本部へ交渉し、なお手島巡査の取り調べを行わぬならば告訴する以外にないと、告訴について神意を伺うこととなり、六月二十三日さしづを仰いだ(「南海大教会史・第一巻」では六月十二日となっている)。 (2) 信者に対する暴行事件の加害者にしても皆、親神の子供である。たとえて言えば、一軒の内に放蕩者がいれば家内が治まらぬようなものだ。しかし放蕩者も可愛い子供に違いない。事件解決は大げさにしないで、低いところからかかるようにしてくれ。 (3) 低いところから、ぼつぼつかかるなら、道はやがてつくであろう。 (4) この事件の解決は容易ではない。しかし何としても穏やかに処置し、告訴するなど表沙汰にしないよう運んでもらいたい。そうすれば、ますます無難な解決の糸口が見えてくる。当初は解決のめどもつかないであろう。お前たちも当事者たちは残念無念と思うであろう。理非曲直を糺すためには、それを裁く所もあるにはある。しかし、この際性急に処置するのではなく、慎重な態度で臨んでもらいたい。出向いて行く者は、この点よく心得て行ってもらいたい。
【摘要】
(1) 官憲の干渉は教内を掃除するふしであって「泥水をすっきり流してしまう」ようなものである。したがってそれは官憲の取り調べを受けているのではなく、親神が「取り調べさす」のである。 (2) 官憲だからと言って、決して、おめ恐れることはない。この道は何もないところから、幾多のふしを通って今日の道になっているのである。 (3) 官憲に対する時は、この世始めた元なるぢばに元のをやが踏ん張っているのだ、ということを心に治めて行くがよい。 (4) この道に反対する者も、親神の目から見れば、皆可愛いわが子である。したがって、お互いは皆、神の子であり兄弟である。たとえ取り調べに当たって、拷問を加えるような仇と思えるようなものに対しても、兄弟の理を治めて告訴などしてはならぬ。 (5) 官憲が、いかんと言えば「ハイ」、ならんと言えば「ハイ」と言うておけ。それによって、一つの理が定まるのである。神はどんなことも見ている。 (6) 教えの理を曲げてくるが、曲げたら曲げただけ、今後道の理が伸びて行くのである。 (7) 官憲の干渉によって教義や祭儀の変更を余儀なくさせられるが、子供可愛い親心の上から一時許すのである。 (8) 官憲の干渉を受けた時こそ、お互いが真実の兄弟であるという理を心に治めて、道の上に「一つの理の台」を作るべき大切な時である。心さえつなぎ合えば、道は開けて行くのである。 \n\n  おさしづには出張、派出、巡教、巡回など、外へ出向いていくについての伺いが割合多い。出張に関しても対外的出張と対内的出張とに分けることができる。体内的とは教内・教会先々への出張である。  さて「教外出張」として扱う対外的出張でおさしづに多いのは、明治二十一年の東京仮本部設置に当たっての上京伺い、また神道本部局への出張、および明治三十二年より始まる一派独立運動のための出張である。ところで、ここに事例として挙げたおさしづは個々に、それぞれ問題点を含んでいるので一括して要約することは難しい。むしろ個々のおさしづに現れた、それぞれの神意を理解することが適当であると思われる。教外出張に当たっては、信者取締りもあれば、事件解決のための出張もあれば、地震や火事見舞いもある。  滋賀県下信者取締りに出向くに当たっては、生涯末代の理をつくらせていただくという心構えでいくよう(二二・一二・一四)仰せられ、濃尾大地震には、早く運べ、真実を受け取る(二四・十・三一)、伊勢火事見舞いでは、道の理は誠心よりない。誠心のつくし合いが肝心だ(三一・五・二四)と、心の持ち方を注意されている。  信者が拷問を受けた金山事件には、仇も皆神の子供であり、兄弟の中の刃物三昧で一人でも傷つく者を出してはならぬと告訴を中止された(二六・六・二三および二七)。  浪花新聞の本教誹謗に対しても、子供が物をほしがるようなもので、道の者は「明日やる拵えてやる心ばえ」で通るよう。そして元のぢばに元のをやが踏ん張っているから理が伝わるのであり、心配はいらぬ(二八・一・四)。橋本事件については「万人の中一人以て防ぐは神の力、神の理」と、親神の親心あふれる神意と、ご守護の絶大さを示されている。  所詮、人間は親神のふところ住まいをしているのであり、この世は神のからだである。  対外的難問題に対処する場合も、このことを心に置いて立ち向かっていくことが肝要であると思われる。

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