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紀州の事件に付伊勢津橋本より電報来たりそれに付事情伺

さあ/\尋ねる処/\、前々に一寸尋ねる処一寸諭したる。一寸に言わん。一度二度で行かん。諭したる。行かんなり運んだる。心に差し入りて事情高き所知らず知らず。なれど十分これだけしてこうと、心にあれば又事情、他に高き所事情で遅るなれど、遅らして置くがよかろう。十分一つ改め。他に事情一つ/\事情によって又遅れる。なれど心得んなあ。又精神心事情あれば運んでもよい。なれど、恩と言うなれど、これからこうせえでもと言う。そこえ/\他に言い聞かす処、当たり前なら行かんならん理ある。なれどどちらも同じ理、皆兄弟々々の中に刃物三昧と言う。親子の中刃物三昧と言う。踏み損えさしてはならん。篤と事情考え、事情運んでくれるよう。

何分書面では委細分かり兼ねますから、呼び戻したものでありますか、押して願
さあ/\まあ/\、一寸はんどう言う、言うだけ言うたら理出るのや。疾うと運ばにゃならん。重々そのまゝ放って置く事出けん。日が長ける。こゝまで運んだら十分運んである。一時呼び/\返やし、これではいかん/\理ある。

一人呼びにやりましょうか願
さあ/\その場/\、一時早く運んでくれ。一人やれ/\。

平野楢蔵やりますと言うて願
さあ/\事情々々、とんと分かろうまい/\。なで折角と言う、こらどういうもの、心あろう。じっと早く急いで。早くじと。さあ/\許そ/\。
【説明】
(1) 山田会長らは警察へ出向き経過を尋ねたところ、誠意のない返答であった。そこで、事ここに至っては告訴するよりほかに道はないとして書類を整え、その旨本部へ打電した。 (2) 当たり前なら、これだけ証拠が揃うているのだから、告訴しなければならん性質のものである。なれど皆、同じ神の子であり兄弟である。親子・兄弟が刃物三昧に及んで、一人でも傷のつくような踏み損ないをさせてはならぬ。 (3) ここまで運んだら、事件は十分解決していると仰せらている。 しかし山田会長らは告訴を取りやめることを承服しないので、平野楢蔵氏が説得に当たった。 \n\n (1) 今回の事件について、個々の事情によって連れているけれど、遅らしておくがよい。遅れている間に円満な解決のめどがつく。 (2) 当たり前なら、これだけ証拠が揃うているのであるから、法的解決はつかなければならぬ性質のものである。しかしどちらも親神にとっては可愛い子供である。その兄弟親子が刃物三昧に及んで一人でも傷つくものがあってはならん。親神としては見るに忍びぬところである。通り方を誤たぬよう、よくよく事情を考えて事を運んでもらいたい。 (3) 神意は、告訴してはならぬと言われ明伯となった。しかし、ただ電報や手紙で「取りやめよ」と通知しただけでは、詳細わかりかねるので、橋本・山田・山中竹史の三名を呼び戻したものでありましょうか、と伺うと「ここまで運んだら十分運んである」と、事件は既に解決していることを仰せられ、説得役として一人派遣せられることになった。おさしづを解説し神意を伝えるには、ほかに適任者もあったろう。しかし橋本・山田両人を説得し告訴を中止させえるのは、両人の性格を考えた時実に容易なことではない。ここで平野氏が説得役に選ばれたようだ。6月27日平野氏は津へ急行し必死に説得し、やっと両人と「もう一度神意をお伺いした上で告訴することにしよう」と話し合いがつき引き揚げた。金山事件は七月十四日山田作治郎身上願のさしづにより、山田氏が飜然と神意を悟り、告訴を取りやめ解決した(「南海大教会史・第一巻」参照)。
【摘要】
(1) 官憲の干渉は教内を掃除するふしであって「泥水をすっきり流してしまう」ようなものである。したがってそれは官憲の取り調べを受けているのではなく、親神が「取り調べさす」のである。 (2) 官憲だからと言って、決して、おめ恐れることはない。この道は何もないところから、幾多のふしを通って今日の道になっているのである。 (3) 官憲に対する時は、この世始めた元なるぢばに元のをやが踏ん張っているのだ、ということを心に治めて行くがよい。 (4) この道に反対する者も、親神の目から見れば、皆可愛いわが子である。したがって、お互いは皆、神の子であり兄弟である。たとえ取り調べに当たって、拷問を加えるような仇と思えるようなものに対しても、兄弟の理を治めて告訴などしてはならぬ。 (5) 官憲が、いかんと言えば「ハイ」、ならんと言えば「ハイ」と言うておけ。それによって、一つの理が定まるのである。神はどんなことも見ている。 (6) 教えの理を曲げてくるが、曲げたら曲げただけ、今後道の理が伸びて行くのである。 (7) 官憲の干渉によって教義や祭儀の変更を余儀なくさせられるが、子供可愛い親心の上から一時許すのである。 (8) 官憲の干渉を受けた時こそ、お互いが真実の兄弟であるという理を心に治めて、道の上に「一つの理の台」を作るべき大切な時である。心さえつなぎ合えば、道は開けて行くのである。 \n\n  おさしづには出張、派出、巡教、巡回など、外へ出向いていくについての伺いが割合多い。出張に関しても対外的出張と対内的出張とに分けることができる。体内的とは教内・教会先々への出張である。  さて「教外出張」として扱う対外的出張でおさしづに多いのは、明治二十一年の東京仮本部設置に当たっての上京伺い、また神道本部局への出張、および明治三十二年より始まる一派独立運動のための出張である。ところで、ここに事例として挙げたおさしづは個々に、それぞれ問題点を含んでいるので一括して要約することは難しい。むしろ個々のおさしづに現れた、それぞれの神意を理解することが適当であると思われる。教外出張に当たっては、信者取締りもあれば、事件解決のための出張もあれば、地震や火事見舞いもある。  滋賀県下信者取締りに出向くに当たっては、生涯末代の理をつくらせていただくという心構えでいくよう(二二・一二・一四)仰せられ、濃尾大地震には、早く運べ、真実を受け取る(二四・十・三一)、伊勢火事見舞いでは、道の理は誠心よりない。誠心のつくし合いが肝心だ(三一・五・二四)と、心の持ち方を注意されている。  信者が拷問を受けた金山事件には、仇も皆神の子供であり、兄弟の中の刃物三昧で一人でも傷つく者を出してはならぬと告訴を中止された(二六・六・二三および二七)。  浪花新聞の本教誹謗に対しても、子供が物をほしがるようなもので、道の者は「明日やる拵えてやる心ばえ」で通るよう。そして元のぢばに元のをやが踏ん張っているから理が伝わるのであり、心配はいらぬ(二八・一・四)。橋本事件については「万人の中一人以て防ぐは神の力、神の理」と、親神の親心あふれる神意と、ご守護の絶大さを示されている。  所詮、人間は親神のふところ住まいをしているのであり、この世は神のからだである。  対外的難問題に対処する場合も、このことを心に置いて立ち向かっていくことが肝要であると思われる。

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