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山名部内益津支教会所外四箇所開筵式に付、これまで仮教会事務所より新築せし教会へ御遷座するに付、道中厳謹にして装束にてお迎え伴する事情に付願

さあ/\尋ねる処/\、さあ/\まあ/\願わくなら重々心、どうでもと思う。どうしてこうしてと言う。どうしたさかいに、ひいそにしたさかいにと言うてどうではない。よう聞き分け。事情その時/\事情に委せ置く/\。何も大仰は要らん。大き事大きしたさかいにと言うて遷す事出けん。理治まりたら同じ事。事情ひいそにしてどういう事こういう事、かえりて治め難くい。いかにもなあ/\、理治まりたら急く。大き理に成る。世上する理に通らんならん。彼処にどうしたためにどう成る、こうしたためにこう成りた。日々薄くなるは世界理、一人々々世界、これだけは聞き分けてくれるよう。
【説明】
(1) 現益津大教会。 (2) 世間でするようにしなければならないとか、あそこではこうした。ここではこうなったというようなことに気を遣うのは、世界の理に流れるのである。世界の理という者は一日々々と薄くなってゆくものであるが、神の理は違う。世界は一人々々心が違うが、神の理はそのようなものではない。神の理に皆心を寄せるのが大事である。
【摘要】
祭儀に関する事情というのは、一般にほとんど起きない。祭儀式は定められた形式があって、それに準拠して執行されるものであるから、もし問題が起こるとすれば何かの事情で、それが規定通りに執行できない場合ということになる。この場合、祭儀式の種類によって、それぞれの事情が複雑になってくるのは言うまでもない。  祭儀の中心はおつとめである。一般教会のと教会本部のとの相違および関連性、つとめ人衆の理、祭典日などには、それぞれ理がある。なぜ、そうなっているかという教理的理由があるので、やむをえない事情以外おさしづでは変更しないように諭されている(なお変更については、明治二十九年四月の内務省訓令以後の、とくに明治二十九年五月二十日のおさしづ、および「稿本中山真之亮伝」215~235頁参照)。  このような事情のおさしづは、適当な引用例をあげることが難しいので、ここでは、祭儀に関係のあるおさしづの中で、特に祭儀を諭されていると思われる例を引かせていただいた。もちろん例の数も不十分であり、本部と一般教会とが同列に取り上げられているなど雑然としているが、これらの例から、祭儀に関して疑問の起こりそうなところや、その悟り方が明らかになろう。  明治二十七年七月三十日のおさしづは、世界の事情の項目にもあげられているが、おつとめの意義が鮮明に述べられている例として、ここにもあげさせていただいた。また祭儀にはおつとめ以外、たとえば葬祭などいくつかあるが省略した。

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