おさしず検索
飯降まさゑ縁談川久保鐵蔵の方は話纏まらぬ故見合わせと成りましたと願
さあ/\尋ねる処/\、もうこれ大抵の事なら、難しいような事なら、前の難しいは先に立つ。急ぐ事なら早く運ぶ。心に浮かばん。これはというよう事ならとんと遅れる。前々分からんような事なら、先々分かろうまい。これでこそ/\と育てる心なら育つ。詰まり/\ては、いつ/\治まらん。よう聞き分け。もうこれどうでも/\と思う。思やん区域の理は大変間違うによって、さしづ通りの理を以てすれば治まる。なれど、長らえての年限道筋幾重の理も出る。そこでよう聞き分け。そこで結んだる縁談でも取りようで間違う。皆んな心の理さえ寄れば、しっかり委せ置く/\。縁談一条何度々々のさしづ。又々日を送り大変な事件のようでは、行く行く軽きとは取れん。後を譲る理ではあろうまい/\。一人の心を目指して世界の鏡とするような事情なら、捜さにゃならん。又よく/\の談示もせにゃなろうまい。よう聞き分け/\。皆の心勇んでするなら、それ/\心の理も散り/\にはなろうまい。先の話を今する。一人の片付け何度々々運ぶ。そんな難しい事情やあろうまい。こちらの心あちらの心、互い/\行き会えば生涯と言う。難しいと言えば生涯難しい。さしづを以て運ぶ中に、事情という難しい事を結んだ処が、所詮一つの道は治まろうまい。さあ/\よく聞き分け。縁というは何処にあるとも分からん。いんねん有る無いも尋ね返やし、何処にいんねんあるとは、これ一人知りたる者あろうまい。なか/\何も分からん処から始めて来た。この道という世界事情を見てみよ。一度尋ねようと思えばだん/\日を待ち、事情運んで成程の理を賜ばって帰る。帰れば皆治まるやろう。ぢば一つの理でありながら、夜々何度々々尋ねて、日々夜夜勤めた処が、勤められようまい。直き/\のさしづを貰うて治まらんと言えば、何処に治まる道があるか。又一つには、重々の理を洗うてその道を運ぶ。遠慮気兼は要らん。一年で戻る者も三年になり、五年になり、いつとも分からんようになる。委せた事を問い返やすからは、委せた理は更に無きものである。さあ/\委せると言えば委せ置こう。さしづの理にどういうものと言うようでは、さしづは何もならんようなものなれど、これまで道の理を考えてみよ。分かるやろう。勝手の理に理を拵えるから間違う。今の話の理に止まって了うと言う。
【説明】
(1) 結んだ縁談でも、受け取り方如何によって間違ってしまう。みんなの心が、そこに寄ることができさえすれば、万事は順調に治まるものである。 (2) この一つの問題を解決するために幾度か運んでいるが、そんなに困難な事情ではなかろう。あちこち、みんなの心が互いに一致したならば、生涯の治まりを見ることができるであろう。折角さしづの理をもって事を運んでいるのに、いろいろ難しい事情を持ちこむようなことがあったとしたら、決して治まるはずはないであろう。よく聞いておくがよい。縁というものは、どこにあるかわからない。いんねんがあるかないかを尋ね返しているが、どこにいんねんがあるかということは、人間にとって誰一人として知っている者はなかろう。 (3) 直後にさしづをもらっているのに、それで治まらないと言うのなら、どこに治まる道があるというのであろうか。さしづしたところを人間思案で、消してしまうような運び方をするからいけないのである。 おさしづにおいては、互いに心寄せ合えば生涯治まるであろうという意味のことを仰せられたのであるが、結果としてこの縁談は整わなかった。 それは本席のおやしき伏せ込みについて、教祖が「親子もろとも」と仰せられたことから、まさゑ姉が外に出てしまうことはできないと考えられていたし、川久保鉄蔵氏も長男であったことなどが、みんなの間で問題となったからかもしれない。また、そばの者が、いろいろな世間的しきたりや社会的常識にとらわれ、人間思案に流されて思し召しに添った運び方をしなかった結果ではないかとも思われる。たとえば前日の「昨夜おさしづ下されしは信徒治め方の事ですござりますか、まさゑ縁談一条の方でござりますか伺」に対するお言葉の中で「蝶や花のようというて育てる中、蝶や花というも息一筋が蝶や花である。これより一つの理は無いほどに」とあるが、それは人間思案の常識を離れて、親神の守護の筋道に就くことが大切であることを教えられたものと解する。
(1) 結んだ縁談でも、受け取り方如何によって間違ってしまう。みんなの心が、そこに寄ることができさえすれば、万事は順調に治まるものである。 (2) この一つの問題を解決するために幾度か運んでいるが、そんなに困難な事情ではなかろう。あちこち、みんなの心が互いに一致したならば、生涯の治まりを見ることができるであろう。折角さしづの理をもって事を運んでいるのに、いろいろ難しい事情を持ちこむようなことがあったとしたら、決して治まるはずはないであろう。よく聞いておくがよい。縁というものは、どこにあるかわからない。いんねんがあるかないかを尋ね返しているが、どこにいんねんがあるかということは、人間にとって誰一人として知っている者はなかろう。 (3) 直後にさしづをもらっているのに、それで治まらないと言うのなら、どこに治まる道があるというのであろうか。さしづしたところを人間思案で、消してしまうような運び方をするからいけないのである。 おさしづにおいては、互いに心寄せ合えば生涯治まるであろうという意味のことを仰せられたのであるが、結果としてこの縁談は整わなかった。 それは本席のおやしき伏せ込みについて、教祖が「親子もろとも」と仰せられたことから、まさゑ姉が外に出てしまうことはできないと考えられていたし、川久保鉄蔵氏も長男であったことなどが、みんなの間で問題となったからかもしれない。また、そばの者が、いろいろな世間的しきたりや社会的常識にとらわれ、人間思案に流されて思し召しに添った運び方をしなかった結果ではないかとも思われる。たとえば前日の「昨夜おさしづ下されしは信徒治め方の事ですござりますか、まさゑ縁談一条の方でござりますか伺」に対するお言葉の中で「蝶や花のようというて育てる中、蝶や花というも息一筋が蝶や花である。これより一つの理は無いほどに」とあるが、それは人間思案の常識を離れて、親神の守護の筋道に就くことが大切であることを教えられたものと解する。
【摘要】
(1) 縁談には何よりも二人の心と心が寄り合い、通い合っていることが大切である。 (2) 神の理に基づいて事を決め、それを生涯末代までもと思い定めてかかることが肝要である。 (3) 縁談とはいんねんあって結ばれるものである。だから互いに心を寄せ合い、つなぎ合って、将来いつまでも治まっていくもと(基礎)をつくるべきである。 (4) 本人同士は言うまでもなく、双方の親をはじめ、みんなが十分に納得し「やれ嬉しい」という喜びの心の理が合っていることが大事である。そうしてこそ、その縁談は十分なまとまりを見ることができる。 (5) 人間思案の義理や都合から判断して、事を運んではならない。重要なのは互いに、真実の心を結び合うことであって形ではない。 (6) 自ら心治まっているのならば、独身であっても何ら差し支えはない。
(1) 縁談には何よりも二人の心と心が寄り合い、通い合っていることが大切である。 (2) 神の理に基づいて事を決め、それを生涯末代までもと思い定めてかかることが肝要である。 (3) 縁談とはいんねんあって結ばれるものである。だから互いに心を寄せ合い、つなぎ合って、将来いつまでも治まっていくもと(基礎)をつくるべきである。 (4) 本人同士は言うまでもなく、双方の親をはじめ、みんなが十分に納得し「やれ嬉しい」という喜びの心の理が合っていることが大事である。そうしてこそ、その縁談は十分なまとまりを見ることができる。 (5) 人間思案の義理や都合から判断して、事を運んではならない。重要なのは互いに、真実の心を結び合うことであって形ではない。 (6) 自ら心治まっているのならば、独身であっても何ら差し支えはない。