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南海分教会火災に付改めて普請の願(教会所は九間に十間の建物)
さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\事情はもう一つの理に許し置こう/\。心置き無う通りてくれ。さあ/\前々事情どうなろう/\、思やんばかり。恐ろしい理の中に理なる事情以て事情運ぶ。一つ受け取りてある。一日早く知らし置いたる。どういう理諭したるなら、案じ無きしっかりという理諭したる。どんな火の中水の中でも遁れさすという理諭したる。さあ/\事情一つの理に許し置こう。
押して、一つの理に許し置こうと仰せ下されしが、すれば事務所煮炊場納屋の三点の処御許し下され度く願
さあ/\珍しい一つ事情、ほんに成程分かるであろう。これから一つ理、どんな所からどんな芽吹くやら分からんで。さあ/\始めてくれ。万事許し置こう/\。
これから先教会所はともかくもその外建物地搗き棟上げいろ/\御願い申します処、一つ/\願の処一手に御許し下さる願
さあ/\尋ねる処/\、さあ/\理を以て尋ねる理に、一つ事情、心置き無うするがよい。万事許し置こう/\。
押して、一つの理に許し置こうと仰せ下されしが、すれば事務所煮炊場納屋の三点の処御許し下され度く願
さあ/\珍しい一つ事情、ほんに成程分かるであろう。これから一つ理、どんな所からどんな芽吹くやら分からんで。さあ/\始めてくれ。万事許し置こう/\。
これから先教会所はともかくもその外建物地搗き棟上げいろ/\御願い申します処、一つ/\願の処一手に御許し下さる願
さあ/\尋ねる処/\、さあ/\理を以て尋ねる理に、一つ事情、心置き無うするがよい。万事許し置こう/\。
【説明】
(1) 南海分教会(現南海大教会)は、明治二十四年四月二十七日に教会設立のお許しを戴き、その際、神殿および付属建物の普請もできたが、明治二十七年四月三十日、教会内部から出火して全焼した。そこで直ちに仮神殿普請のお許しを戴き、五月の月次祭はこの仮神殿において勤められたが、これでは申し訳ないと、続いて本普請の願いをされたのが、このおさしづである(「南海大教会史・第一巻」参照)。 (2) 今回の事情について、いろいろ思案もするであろうが、人間から見たら恐ろしいと思われるような事柄の中にも、神の思惑があるのである。今日まで神一条に通ってきた理は、ちゃんと受け取ってある。したがって前にも諭した通り、火の中、水の中でも神が連れて通るによって、何も案じることはいらない。 (3) 人間の目から見たら、恐ろしいように思える事柄でも神がしていることであるから、どんな珍しいことになるかわからないのである。今度の事情も、そのふしからどんな新しい芽が吹くかわからんのであるから、勇んでかかるよう。
(1) 南海分教会(現南海大教会)は、明治二十四年四月二十七日に教会設立のお許しを戴き、その際、神殿および付属建物の普請もできたが、明治二十七年四月三十日、教会内部から出火して全焼した。そこで直ちに仮神殿普請のお許しを戴き、五月の月次祭はこの仮神殿において勤められたが、これでは申し訳ないと、続いて本普請の願いをされたのが、このおさしづである(「南海大教会史・第一巻」参照)。 (2) 今回の事情について、いろいろ思案もするであろうが、人間から見たら恐ろしいと思われるような事柄の中にも、神の思惑があるのである。今日まで神一条に通ってきた理は、ちゃんと受け取ってある。したがって前にも諭した通り、火の中、水の中でも神が連れて通るによって、何も案じることはいらない。 (3) 人間の目から見たら、恐ろしいように思える事柄でも神がしていることであるから、どんな珍しいことになるかわからないのである。今度の事情も、そのふしからどんな新しい芽が吹くかわからんのであるから、勇んでかかるよう。
【摘要】
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。 そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。 そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。 そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。 そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。