おさしず検索
桝井伊三郎母ゆき身上願
さあ/\尋ねる事情、よう聞き取らにゃならん。これまで理を諭したる。これまで長らえて、一寸には心にいつの事と思うた日もあるなれど、今日の日は分かりてあるやろう。子供という、何名何人、この者はこうする。そりゃその時は楽なようなもの、日々運ぶ理の集まる処、この理をよう聞き取れ。当分と言う。当分が一度二度三度も運ばんならんようになる。長らえこの中、よう/\の日である。年取りたる者にも、よう満足さしてくれ。子供を育てるが役、夫婦も言う。欲いと思うてあたゑ無ければどうもなろうまい。世上には十分の事情、何不足無くても、いつ/\の宝無うて、難儀する者を考え。その場の宝いつ/\宝、この理、事情をよう聞き分けてくれ。
【説明】
(1) 夫婦の天職は子供を育てることにある。子供は欲しいと思うても与えられるものでない。親神が与えてくださるものであり、この天の与えである子供を育てるのが夫婦の役目である。 \n\n (1) ゆき姉 本部員桝井伊三郎氏の妻女おさめ姉の実母。 (2) 夫婦は子供を育てるのが役である。子供がほしいと思っても、お与えがなければどうにもならぬ。世間には何不自由なく暮らしながら、子供がなくて難儀している者のあることを考えるよう。今の宝は宝のように思えなくとも、将来にかけがえのない宝となる。この理を、よく聞き分けてもらいたい。
(1) 夫婦の天職は子供を育てることにある。子供は欲しいと思うても与えられるものでない。親神が与えてくださるものであり、この天の与えである子供を育てるのが夫婦の役目である。 \n\n (1) ゆき姉 本部員桝井伊三郎氏の妻女おさめ姉の実母。 (2) 夫婦は子供を育てるのが役である。子供がほしいと思っても、お与えがなければどうにもならぬ。世間には何不自由なく暮らしながら、子供がなくて難儀している者のあることを考えるよう。今の宝は宝のように思えなくとも、将来にかけがえのない宝となる。この理を、よく聞き分けてもらいたい。
【摘要】
(1) 夫婦になるのも、ならないのも、すべて親神の思召し次第である。 (2) 夫婦は夫婦になるいんねんの者が寄り合っているのであり、お互いの中に自分のいんねんを見て暮しているのである。 (3) いんねんどおりの夫婦ができているのであるから、生涯仲よく睦まじく暮らさなければならない。 (4) 仲良く睦まじくするのも、単に倫理的な意味でなく、よふぼくとして成人するためである。それぞれ仕込みを受けるが、心の成人のため互いに心を合わせていくことが大切である。 (5) 親神からの授かりものである子供を、養い育てていくことが夫婦の役目である。 \n\n 子供に関するおさしづを検索すると、次のような点が指摘されている。 一、 親と子の関係 (1) 子供は先祖の魂の生まれ更わりである。親が子となり子が親となり、互いに恩の報じ合いをして通るのである。 山沢さよ姉は祖母に当たる梶本ひさ姉の生まれ更わり、永尾たつゑ姉は永尾家三代前の母の生まれ更わり、増野道興氏は祖父庄兵衛氏の生まれ更わりである。 なお前生いんねん果たしができていなければ、そのいんねんを今生に持ち越す。また親がいんねん切りの道を通れば子供はしあわせになる。親がたすけ一条の道を通らなければいんねんは切れない。 (2) 嗣子はいんねんによって結ばれる。よい子を持つも、よくない子を持つも、すべていんねんによる。 (3) 子供は先祖から受け継いだ理を享けて通るものである。ただ一代限りだと思ってはならぬ。理は末代である。 二、 子供とは (1) 子供は各自持って生まれた徳分を持つ。子供が幾人いても神が引き受ける。 (2) 子供は十五歳まではおやのいんねん、すなわち十四歳以下は親のいんねん、先祖代々のいんねんを担うものであり、十五歳以上は本人の心遣いによる。現在教会本部で戴くおまもりは、十四歳以下は子供おまもりを戴く、十五歳以上は大人のおまもりを戴く。 (3) 子供は宝である。仮に今は宝のように思えなくとも、将来かけがえのない宝である。 三、 子供の身上 (1) 子供の患いは一家中の患いである。 (2) 子供の身上は、親の心遣いの投影である。山沢ミキノ姉の上げ下し、永尾たつゑ姉や梶本ミチ姉の夜泣きは、親の心の投影であると言われる。 (3) 子供の身上より心を定めよ。子供の身上は精神定めの台である。小児深谷景三の身上障りを通し、河原町分教会の事情定めによって、甲賀・水口・湖東の分離昇格が打ち出された。山名分教会の諸井政一氏の身上によって後継者問題が再確認された。 (4) 親にとって子供は可愛いものである。わが子の身上を通し、理の親たるの心をしっかり定めるよう。 四、 子供のない場合 (1) 子供の授からないのは前生いんねんによる。与えられた境遇をたんのうして通ること。 (2) 子供があたわらないのは自分らに、そのあたえがないからであり、しっかり徳を積むよう。 (3) 道を通れば理の子供があたわる。心に思い残すことのないよう勇んで通ること。
(1) 夫婦になるのも、ならないのも、すべて親神の思召し次第である。 (2) 夫婦は夫婦になるいんねんの者が寄り合っているのであり、お互いの中に自分のいんねんを見て暮しているのである。 (3) いんねんどおりの夫婦ができているのであるから、生涯仲よく睦まじく暮らさなければならない。 (4) 仲良く睦まじくするのも、単に倫理的な意味でなく、よふぼくとして成人するためである。それぞれ仕込みを受けるが、心の成人のため互いに心を合わせていくことが大切である。 (5) 親神からの授かりものである子供を、養い育てていくことが夫婦の役目である。 \n\n 子供に関するおさしづを検索すると、次のような点が指摘されている。 一、 親と子の関係 (1) 子供は先祖の魂の生まれ更わりである。親が子となり子が親となり、互いに恩の報じ合いをして通るのである。 山沢さよ姉は祖母に当たる梶本ひさ姉の生まれ更わり、永尾たつゑ姉は永尾家三代前の母の生まれ更わり、増野道興氏は祖父庄兵衛氏の生まれ更わりである。 なお前生いんねん果たしができていなければ、そのいんねんを今生に持ち越す。また親がいんねん切りの道を通れば子供はしあわせになる。親がたすけ一条の道を通らなければいんねんは切れない。 (2) 嗣子はいんねんによって結ばれる。よい子を持つも、よくない子を持つも、すべていんねんによる。 (3) 子供は先祖から受け継いだ理を享けて通るものである。ただ一代限りだと思ってはならぬ。理は末代である。 二、 子供とは (1) 子供は各自持って生まれた徳分を持つ。子供が幾人いても神が引き受ける。 (2) 子供は十五歳まではおやのいんねん、すなわち十四歳以下は親のいんねん、先祖代々のいんねんを担うものであり、十五歳以上は本人の心遣いによる。現在教会本部で戴くおまもりは、十四歳以下は子供おまもりを戴く、十五歳以上は大人のおまもりを戴く。 (3) 子供は宝である。仮に今は宝のように思えなくとも、将来かけがえのない宝である。 三、 子供の身上 (1) 子供の患いは一家中の患いである。 (2) 子供の身上は、親の心遣いの投影である。山沢ミキノ姉の上げ下し、永尾たつゑ姉や梶本ミチ姉の夜泣きは、親の心の投影であると言われる。 (3) 子供の身上より心を定めよ。子供の身上は精神定めの台である。小児深谷景三の身上障りを通し、河原町分教会の事情定めによって、甲賀・水口・湖東の分離昇格が打ち出された。山名分教会の諸井政一氏の身上によって後継者問題が再確認された。 (4) 親にとって子供は可愛いものである。わが子の身上を通し、理の親たるの心をしっかり定めるよう。 四、 子供のない場合 (1) 子供の授からないのは前生いんねんによる。与えられた境遇をたんのうして通ること。 (2) 子供があたわらないのは自分らに、そのあたえがないからであり、しっかり徳を積むよう。 (3) 道を通れば理の子供があたわる。心に思い残すことのないよう勇んで通ること。