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井筒梅治郎妻とよ身上大熱に付願

さあ/\尋ねる処/\、さあ身上が心得ん/\。どんな思案する。思案すれど、とんと鮮やかならん。何間違う。何も間違いあろうまい。又一つ治め方であろうか。治め方は皆談じ合うての治め方、めん/\不自由、万事心一寸寄せるだけ。こゝまでこうしたら、皆治め来るに相違無いと、めん/\掛かりから思うて見れば、道開けてある。尽す理も見えてある。めん/\心に掛かる。自分心と言う。一日やれやれ、又一日やれ/\と、先を思えば切りが無い。何も心に掛けず、日々心の治め方、思案して見るがよい。めん/\これまでなあと言うた日ありたであろう。こゝまでこうしてこうと言うた日あろう。どんな事も成りて来ればどうむならん。一日やれやれ、又一日やれ/\。ほんに速やか成りたなあ、と言えば、生涯に持って思うて案じて居れば切りが無い。先々すっきり思わんよう。皆一名一人の心の理以て与えてあるで。
【説明】
井筒とよ、芦津大教会初代会長井筒梅次郎夫人。 治め方は皆談じあっての治め方の方が大切である。各自不自由をしながらも、万事について一寸心をよせるだけで十分談じ合わないのは良くない。先ず自分がここまでこうしたら、やがて皆が治めに来るにそういないと、各自お道の最初のことから思ってみれば、道がひらけておるし、尽くす理も見えている。各自心にかかるのは、自分心(勝手な人間思案)というものがあるからである。今日一日もやれやれと毎日不足し、先案じをすればきりがない。何事も心にかけず、日々心の治め方を思案してみるがよい。という意味で、大熱は自分心を捨て、お互いに談じ合い、毎日たんのうして通れ。ということを指示されたのであろう。
【摘要】
熱については、物体の摩擦から発熱するように、心の摩擦から、身上に発熱するという理をさとされている。そもそもの理即ち、各自が勝手の心を遣い、一手一つに治まらない理ー仲違いの理ーが発熱となる。よく談じ合い、一手一つになることが発熱を御守護いただく元である。また因縁の自覚が足らず、因縁の理に逆ろうて不足することも、発熱病の元となる。発熱の場合は、各自がたんのうし、またそれぞれがたんのうし合うということが、特に大切であろう。

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