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教祖の御普請御許し願

さあ/\尋ねる処/\、さあ事情諭そう。これ/\よう聞き分け。もうこれ十年祭十年祭、十年祭と思うも一つの理思わにゃなろうまい。よう聞き分け。元という、どういうもの。元の普請出けん。どういうもの。これが世界の大道やで。先々育てて成人したら、どんな所からどういう事出けるやら知れやせん。何にも分からせん。もう十分子供成人したなら思うようになる。成人半ばで思案という理出掛けたらどうもならん。所々成程の理治まりたら、一時に成る成らんとも言わん。をやという、子供という、子供十分さしてをやが楽しむ。子が成人してをやが大切、楽しみと楽しみと、という。世上治まりの理、十分の事が一時に治まる。仮家々々日々の理に要る。どうしてこうして不足とも言わん、思わせんで。世界子供成人を待ち兼ねる。案じも無きいつの間になったというようになる。内々の処どうでもこうでも、地所集め掛けたる処、大抵々々もう少しの処、直きに集めさして了う/\。又一つ皆んな存命中の建家、風呂もそのまゝ、便所もそのまゝ。日々守を付けて居る処、存命も同じ事やで。又内々働き居る者だけ、仮家々々建て掛けるがよい。許し置くで許し置くで。 押して願 未だ不都合やで/\。よう聞き分け。どういうもの。十年祭が切りやという心、どうもならんで/\。 押して、教長御普請願 仮家々々、仮家に掛かりて仮家の心を以てするがよい/\。仮家々々、その日/\に要るものや。よう聞き分けてくれ/\。
【説明】
(1) 親の普請ができぬとは、どういうことかと思うであろうが、親の普請を後回しにすることは、これがやがて世界助けの大道となるゆえんである。先々の子供を育て成人すれば、どんな所から、どんな大きなことができるかもしれぬ。子供さえ十分成人したなら思うようにできてくる。成人の途中で迷いや疑い心を出すようになればどうもならん。あちこちで親の思惑を、なるほどと治めてくれるようになれば、教祖殿など一時に出来上がってしまう。 (2) 教祖殿の建築は、まだ不都合である。この道が十年祭で終わりなるような考えをしてはならぬ。 \n\n (1) 教祖十年祭は目前に迫り、十年祭に当たっては教祖が現身をかくされた理を思案しなければならぬ。もともと、どういうものであるか、元である教祖の住まいの普請ができないのはどういうわけか、これは将来において大きな普請ができるようになる土台である。先々子供を育てて、その子が成人してくれたなら、どんなところからどんなことができてくるやらわからぬ。子供さえ十分に成人してくれれば心配いらぬ。成人途中人間思案の心ができてくれば困るのである。国々所々で親の思惑をなるほどと納得してくれれば、教祖殿などは一時に出来上がってしまうであろう。親と子供の間は、子供に十分満足させて親が楽しみ、子が成人して親を大切にし、互いに楽しみ合うのが世上治まりの理である。いま仮屋に住まっているが、日々働いている。いまの仮屋にいることを不足にも思っていない。部下先々の子供の成人を待ち望んでいる。子供さえ成人すれば心配もなく、いつの間にできたのだろうと言うようにできてくる。やしきの内々の地所拡張については大抵買い集めたが、もう少しの所は、その内集めてしまおう。また、やしき内に残る教祖在世中の建物、風呂、便所も、そのままにしておけ。日々当番をつけている所も、その通りにしてくれ。教祖は存命同様である。なお、やしき内に働いている者の建物は、仮屋を早く建てかけるがよい。その方は許しておく。 \n\n (1) もう十年祭も間近に迫って来た。その十年祭については、教祖が現身をかくした、その理の上から思案してくれなければならん。この道の元と言えば、教祖一人から始まり今日になったのであるが、その元である教祖の普請が許されないのは、どうしてだろうとお前たちは思うであろう。しかし、これこそ世界たすけの本筋なのである。つまり、たすけ一条の親心なのである。この先子供を育て、その子供らが成人さえしてきたならば、どんな所から、どんなことが出来上ってくるかわからないのである。それがお前たちにはわかっていない。お前たち子供が成人さえすれば、願い通りの姿にもなってくるのであるが、成人なかばで普請を始めてみても、その道中で不足の心が出てくるようでは、何にもならないのである。あちらの者もこちらの者も、なるほど成人できたなあ、というようになりさえすれば、すぐにもできることである。 (2) 今は仮屋に住んでいるが、日々に必要なものは、これで間に合っている。だから、どうしてくれとも、こうしてくれとも言わないし、不足とも思わない。それよりも親は、ひたすら一列の子供の成人をこそ待ちかねているのである。 (3) 教祖殿の普請は、まだ不都合である。よく聞き分けるがよい。どうして許されないかと思うであろうが、それは、お前たちは、まるで十年祭を勤めさえしたら、それですべて終わってしまうような考えをしている。そんな小さい心では、どうもならん。
【摘要】
本部の普請についての諭しは、それぞれの普請の規模、構造、用途が異なるので、それについて述べられた神意を一様にまとめて言うことはできにくい。しかし次の点は、一貫しているように思う。 (1) 今一時は皆、仮屋普請である。しかして道普請であり、切り無し普請であるということ。 (2) 親の普請を急ぐより、親心の上から大勢の子供たちの帰ってくるおやしきの拡張、信者詰所の普請を望まれていた。しかし、上田ナライト様の住まいや神殿普請のおさしづに見られるように、機が熟して、神意を達成するための普請は、どんなに財政が困窮した中でも、これをやり遂げるように、きびしく急き込まれている。しかして普請の心構えとして、次のように諭されている。 ① 道の順序を聞き分けることが大切である。つとめ場所が道の普請の掛かり初めであったが、最初は小さいものから出来上がって来た道である。この最初掛かりの精神で通れば、どんなこともできる。 ② つとめ場所は一坪から始まったのであるが、その普請を引き受けると言うたのは本席である。普請に当たって、皆その心になるように。 ③ 普請はまず、木を一本買うことから始まるのである。 ④ 旬をはずさないように。旬をはずせば、できることもできなくなる。 ⑤ 念の入ったことはいらん。木柄に望み好みをするよりも、大きな心で何でもという精神が大切。小さな心ではいずんでしまう。 ⑥ 急いでかかれば十分のことができない。前々から用意を整えておくことが大切。 ⑦ 案じ心を捨て、楽しみという心をもって、勇んでかかるように。勇んでかかれば神が十分働く。 ⑧ 皆心を合わせて、一つ心になることである。派を分けてはならん。 ⑨ 外面を飾るよりも、内面の充実が大切である。「中に綿を着ずして、外に綿を着ては通られん」と仰せられている。 \n\n 本部の地所に関するおさしづを通覧すると、次のような点に神意が現われている。 (1) 神のやしきの地取(範囲)は、既に神意として定まっているということ。かねがね教祖は「八町四方は神のやかた、奈良初瀬七里は宿屋ばかり」と仰せになっており、遠大な親神の思召しが着々実現されていくことになる。 神のやしきの地取りはすでに定まっている (明治22・10・20) 縄を張って何間何尺定めたるようなもの (明治26・6・13) 元のやしきへ成って来る (明治23・4・24) 年限だん/\重なれば八町四方になる (明治27・11・17)    というようなお言葉に、そのことがうかがえる。 (2) 道の子供たちが親神を慕って帰って来るぢばであるゆえに、広い地所が必要である。教祖十年祭を迎えるに当たって教祖殿建築につき伺うと、  親の内は地所さい広がりたら十分。子供戻るぢば無うてはどうもならん (明治28・3・10) と言われ、これより詰所がぢばに建築され賑やかとなる、広い地所を神はお望みである。  広く要る/\、急くも神、抑えるも神の働き (明治22・8・18) (3) おやしき拡張のための地所買い入れは、申すまでもなく親神の親心によってご守護をいただくのである。  地所集め掛けたる処、大抵々々もう少しの処、直きに集めさして了う (明治28・11・14)  道の理運んで万事の処心さえ持って働きさえすれば、どんなことでもさしてみせる (明治33・4・20) (4) おやしき拡張整備のための土地購入は急いではならぬ。年限によってご守護をいただくのである。  年限という処から、ぼち/\掛かれば成る (明治34・2・10)  成程という処から何でも及ばす。年限の理を持って及ばす (明治32・1・15)  大木の大きくなるようなもの (明治28・8・19) また、旬がくれば口を開いたように、鮮やかに順調よくご守護をいただく、とも言われる。教祖五年祭(明治二十四年)を迎えるに当たって、その前年のさしづには、 広くぢばが要る。要るというて前にも諭したれど、やしきの取りようもないと思うやろう。なれど一つ口が開けたら皆寄り来るであろう。(中略)仮家普請差掛普請、一寸始め掛けた (明治23・6・21)    それは日覆いを取り除けるようなものだと言われている。 (5) 土地買い入れについての人の心の在り方はどうであればよいか、と言えば、この点については、  大層々々は受け取れん。大層してはたすけ一条何もならん (明治33・3・16)  かけ合いなら何時でも許し置く。尋ねるまで。大層の処世界にも成らん (明治32・1・15) しかも大切なことは、各人の発意によるものであって、無理なことは神は受け取れぬ、と言われている。  運ぶ尽くす理は受け取る。(中略)しようまいと思たて、出来掛けたら出けるで (明治25・6・20)  何にも進めるやない、頼むやない (明治22・10・23)  いずれ広くならにゃならん。(中略)人の心によりて心一つ成るものや (明治34・11・13) ――親神の深い思惑によって、親神のご計画が着々実現されつつあることに間違いはない。かつ、道の普請(建物の場合)は仮普請で、更に将来へ向かって発展する一過程における普請であることが特徴的で、道の子供たちの勤めは、一日も早い親神の思召し実現に努力することである。  先々育てて成人したら、どんな所からどういう事出けるやら知れやせん (明治28・11・14) と、非常に子供の成人に期待をかけられている。そのご期待に応えるには、どのように努めればいいか、この点が最も肝要なところであろう。 \n\n  教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。

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