おさしず検索
陰暦正月二十六日、教祖の一周年祭式の際に警官出張して、集合の人を退出せしめ、真之亮始め四五十名の姓名を帳簿に記し、家族の者以外は門前へ警官付添い追出さしめたるに付、翌二十七日伺
さあ/\/\難し/\/\道や。難しいと言うて難しい中、一つの理一つ/\洗うで。いかとも言うでない。前々に知らしてある。すっきり洗い切る。難しいと言えば難しい。どんな道も連れて通ってある。何でも洗い切る。今の処すっきり止めたと思えば、すっきり掃除。これまですっきり掃除すると言うてある。ふしからふしからの芽が出てある。こんな中から芽が出る。一寸の芽は一寸取れる、すっきり取れる。すっきり掃除。内から内へどっちもこっちも案じる事は要らんで。
追て伺
さあ/\分からん/\/\。いつまでも分からんから分からん。どんな事も聞いて置かにゃならん。十分道と言えば、世界から付けに来る。世界からろくぢという道を付き来る。濁った/\道でどうもならん。一つ所より吹いたる枝/\/\、一寸吹いたる芽は、今度は折れん。十分枝が吹くと。どんな事も聞いて置け。
天理教会設立の伺
さあ/\どんな事も俺がするのやで。善もある、悪もある。善悪分かるのやで。悪は扈からす/\。善より思案して見よ。五十年前よりある。無い/\という処から付いて来てあるもの。どんな道も連れて通ろう。一つ理も立てよ/\。十分の理を立つものと、一つの所に日々一つの道を付けようと思う。一つ道も連れて通る。こうして居られん。世界の処こうして居られん。同じ理や、連れて通ろう。
又、教会設立を運ぶに付心得
一寸の道の処、一寸は一寸のため、軽き処より上そうと、一つ所本部々々。これまでも伝えてある。あちらも本部々々、どんと十分の所に行かんと、思案々々。その時々思案に応じて、思案の理よう聞き分け。所々、思案々々の道もある。所々で栄えてある。まあ/\あちらの所の理を尋ねる、こちらの所の理を締まる。一つの運ぶ処の理、又、人間は/\理がある。軽く/\元一つの理は難し。日々景况、皆々これだけこうしたら/\と思う。思案々々の道や。これから、どのくらい思案々々の道を通すや知れんで。一寸事情まあ/\軽き/\/\。
元々の所というは、十分に洗い切る。金銀の理を分けるまで洗い切る。やしき一つの理すっきり洗い切る/\。内一つの理というは、ぢば一つ理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて。
渡る川も渡る、連れて通る道も通る。誰々とも言わん。これ/\という者寄って運んでみるがよかろうと。元々の思案、神の道というものは、よう聞いて置かねばならん/\。
真之亮東京へ御越の願
話々一寸の処は、人間はこういう時/\という道も運ぶ。
前件に付、桝井伊三郎より押しての願
さあ/\運ぶ処/\は運ぶ。まあ/\銘々はそれ/\の道を通してある。年限相応や/\。一日々々の判然たる処、掃除々々、一寸判然たる処、掃除々々、許してあるのやで。案じる事は要らんで。しっかりして居よ/\。一日々々の処、受け取る事が出けたなあ/\。案じる事は要らん。これまでの処思て見よ。あちら向いて思案し、こちら向いて思案し、俯向いて思案し、一寸に弱い者と、十分掃除仕立てたら速やかになる。立て合いとはこの事、心次第の理もある。よく聞かして置こう。(右おさしづの通り二十六日教祖の一周年祭に一寸のふしあり、安堵村飯田宅にて大集会の上、いよ/\東京へ出張の上、本部を設立するの運びに掛かる。)
追て伺
さあ/\分からん/\/\。いつまでも分からんから分からん。どんな事も聞いて置かにゃならん。十分道と言えば、世界から付けに来る。世界からろくぢという道を付き来る。濁った/\道でどうもならん。一つ所より吹いたる枝/\/\、一寸吹いたる芽は、今度は折れん。十分枝が吹くと。どんな事も聞いて置け。
天理教会設立の伺
さあ/\どんな事も俺がするのやで。善もある、悪もある。善悪分かるのやで。悪は扈からす/\。善より思案して見よ。五十年前よりある。無い/\という処から付いて来てあるもの。どんな道も連れて通ろう。一つ理も立てよ/\。十分の理を立つものと、一つの所に日々一つの道を付けようと思う。一つ道も連れて通る。こうして居られん。世界の処こうして居られん。同じ理や、連れて通ろう。
又、教会設立を運ぶに付心得
一寸の道の処、一寸は一寸のため、軽き処より上そうと、一つ所本部々々。これまでも伝えてある。あちらも本部々々、どんと十分の所に行かんと、思案々々。その時々思案に応じて、思案の理よう聞き分け。所々、思案々々の道もある。所々で栄えてある。まあ/\あちらの所の理を尋ねる、こちらの所の理を締まる。一つの運ぶ処の理、又、人間は/\理がある。軽く/\元一つの理は難し。日々景况、皆々これだけこうしたら/\と思う。思案々々の道や。これから、どのくらい思案々々の道を通すや知れんで。一寸事情まあ/\軽き/\/\。
元々の所というは、十分に洗い切る。金銀の理を分けるまで洗い切る。やしき一つの理すっきり洗い切る/\。内一つの理というは、ぢば一つ理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて。
渡る川も渡る、連れて通る道も通る。誰々とも言わん。これ/\という者寄って運んでみるがよかろうと。元々の思案、神の道というものは、よう聞いて置かねばならん/\。
真之亮東京へ御越の願
話々一寸の処は、人間はこういう時/\という道も運ぶ。
前件に付、桝井伊三郎より押しての願
さあ/\運ぶ処/\は運ぶ。まあ/\銘々はそれ/\の道を通してある。年限相応や/\。一日々々の判然たる処、掃除々々、一寸判然たる処、掃除々々、許してあるのやで。案じる事は要らんで。しっかりして居よ/\。一日々々の処、受け取る事が出けたなあ/\。案じる事は要らん。これまでの処思て見よ。あちら向いて思案し、こちら向いて思案し、俯向いて思案し、一寸に弱い者と、十分掃除仕立てたら速やかになる。立て合いとはこの事、心次第の理もある。よく聞かして置こう。(右おさしづの通り二十六日教祖の一周年祭に一寸のふしあり、安堵村飯田宅にて大集会の上、いよ/\東京へ出張の上、本部を設立するの運びに掛かる。)
【説明】
人間思案からすると難しい事情であると思うかもしれないが、これまでも、どんな道も連れて通って来てある。今日のところ、すっきりやめたと思うかもしれないが、これはすっきり心の掃除をするふしなのだ。これまでの道の上でもふしから芽が出てあるように、今度のふしから芽が出るのであるから、すっきり掃除して神一条に徹せよ。 (2)「十分道」「ろくぢという道」は、外からつけにくるのである。このたびのふしは、ちょうどそのような道をつけにきたようなものである。ところが現在の道は人間思案が先に立って、濁っているからどうもならん。だから掃除をしなければならぬ。そうすればぢばより吹き出す今度の芽は、折れることのない枝として伸びてゆく。 \n\n (1) 実に難しいと思われる中から、一つの理(親の思惑、ぢばの理)をだんだんに洗いだして明らかにする。だから、なぜだろうかなどと思い煩うことはない。前々からも知らしてあるように(人の心を)すっきり洗いきるのである。なるほど、今の道の姿を人間思案からすれば難しいかもしれないが、今までから、どんな道も連れて通ったではないか。今の場合も、一切が止められたと思われるような事態ではあるが、それは今までにも言うてあるように、心の掃除をするためのふしなのである。また今までにも、いろいろのふしから芽が吹いているが、これと同じように、このふしからも新しい芽が出るのである。けれども、ちょっとした弱い芽は、ちょっとしたことでとれてなくなってしまうが、そんな弱い芽でなく、しっかりした芽を出さすために、すっきりと心の掃除をし、神一条に徹することが肝要である。今のこの事態も、こうした掃除のためのふしであるから、内々の者も、このことをわきまえて通るならば、何も案じることはない。 (2) 十分な道(往還道)というものは、世界からつけにくる。言い換えれば世界の事情がふしとなって、そこから十分な道がついてくるのである。ところが今の道の姿は、とかく人間思案に流れて濁っているからどうもならん。そこで、このたびのふしによって神一条に立ち返るならば、この旬に一つ所(ぢば)より新たに吹く芽となって、決して折れることもなく、先々十分に伸び栄えてゆく枝となるのである。 (3) 五十年前すなわち、この道が始まって以来どんな道も通ってきた。これは、ごく、ないないにひそやかな道から始まり今日の道となったのであるが、これは神が連れて通ったからに他ならない。また、これから先も連れて通ろう。ただ肝心なことは、一つ理(ぢばの理)をしっかり立てるということである。そうすれば、かねがねからの念願であったぢばに教会を設立するということも、神が守護して通ってやろう。 (4) 元々の所、すなわちぢばの理をはっきりとさせてゆく。一目で金と銀が見分けられるほどに、はっきり示そうと思う。このやしきの理をはっきりさす。内一つの理、すなわちぢば一つの理というものは、誰にどうされなくとも、もともとから厳然と成り立っているものである。 (5) もともとの思案すなわち神一条の道が、どんなものであるかについては、しっかり心に治めてかからねばならん。
人間思案からすると難しい事情であると思うかもしれないが、これまでも、どんな道も連れて通って来てある。今日のところ、すっきりやめたと思うかもしれないが、これはすっきり心の掃除をするふしなのだ。これまでの道の上でもふしから芽が出てあるように、今度のふしから芽が出るのであるから、すっきり掃除して神一条に徹せよ。 (2)「十分道」「ろくぢという道」は、外からつけにくるのである。このたびのふしは、ちょうどそのような道をつけにきたようなものである。ところが現在の道は人間思案が先に立って、濁っているからどうもならん。だから掃除をしなければならぬ。そうすればぢばより吹き出す今度の芽は、折れることのない枝として伸びてゆく。 \n\n (1) 実に難しいと思われる中から、一つの理(親の思惑、ぢばの理)をだんだんに洗いだして明らかにする。だから、なぜだろうかなどと思い煩うことはない。前々からも知らしてあるように(人の心を)すっきり洗いきるのである。なるほど、今の道の姿を人間思案からすれば難しいかもしれないが、今までから、どんな道も連れて通ったではないか。今の場合も、一切が止められたと思われるような事態ではあるが、それは今までにも言うてあるように、心の掃除をするためのふしなのである。また今までにも、いろいろのふしから芽が吹いているが、これと同じように、このふしからも新しい芽が出るのである。けれども、ちょっとした弱い芽は、ちょっとしたことでとれてなくなってしまうが、そんな弱い芽でなく、しっかりした芽を出さすために、すっきりと心の掃除をし、神一条に徹することが肝要である。今のこの事態も、こうした掃除のためのふしであるから、内々の者も、このことをわきまえて通るならば、何も案じることはない。 (2) 十分な道(往還道)というものは、世界からつけにくる。言い換えれば世界の事情がふしとなって、そこから十分な道がついてくるのである。ところが今の道の姿は、とかく人間思案に流れて濁っているからどうもならん。そこで、このたびのふしによって神一条に立ち返るならば、この旬に一つ所(ぢば)より新たに吹く芽となって、決して折れることもなく、先々十分に伸び栄えてゆく枝となるのである。 (3) 五十年前すなわち、この道が始まって以来どんな道も通ってきた。これは、ごく、ないないにひそやかな道から始まり今日の道となったのであるが、これは神が連れて通ったからに他ならない。また、これから先も連れて通ろう。ただ肝心なことは、一つ理(ぢばの理)をしっかり立てるということである。そうすれば、かねがねからの念願であったぢばに教会を設立するということも、神が守護して通ってやろう。 (4) 元々の所、すなわちぢばの理をはっきりとさせてゆく。一目で金と銀が見分けられるほどに、はっきり示そうと思う。このやしきの理をはっきりさす。内一つの理、すなわちぢば一つの理というものは、誰にどうされなくとも、もともとから厳然と成り立っているものである。 (5) もともとの思案すなわち神一条の道が、どんなものであるかについては、しっかり心に治めてかからねばならん。
【摘要】
(1) 官憲の干渉は教内を掃除するふしであって「泥水をすっきり流してしまう」ようなものである。したがってそれは官憲の取り調べを受けているのではなく、親神が「取り調べさす」のである。 (2) 官憲だからと言って、決して、おめ恐れることはない。この道は何もないところから、幾多のふしを通って今日の道になっているのである。 (3) 官憲に対する時は、この世始めた元なるぢばに元のをやが踏ん張っているのだ、ということを心に治めて行くがよい。 (4) この道に反対する者も、親神の目から見れば、皆可愛いわが子である。したがって、お互いは皆、神の子であり兄弟である。たとえ取り調べに当たって、拷問を加えるような仇と思えるようなものに対しても、兄弟の理を治めて告訴などしてはならぬ。 (5) 官憲が、いかんと言えば「ハイ」、ならんと言えば「ハイ」と言うておけ。それによって、一つの理が定まるのである。神はどんなことも見ている。 (6) 教えの理を曲げてくるが、曲げたら曲げただけ、今後道の理が伸びて行くのである。 (7) 官憲の干渉によって教義や祭儀の変更を余儀なくさせられるが、子供可愛い親心の上から一時許すのである。 (8) 官憲の干渉を受けた時こそ、お互いが真実の兄弟であるという理を心に治めて、道の上に「一つの理の台」を作るべき大切な時である。心さえつなぎ合えば、道は開けて行くのである。 \n\n 教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。
(1) 官憲の干渉は教内を掃除するふしであって「泥水をすっきり流してしまう」ようなものである。したがってそれは官憲の取り調べを受けているのではなく、親神が「取り調べさす」のである。 (2) 官憲だからと言って、決して、おめ恐れることはない。この道は何もないところから、幾多のふしを通って今日の道になっているのである。 (3) 官憲に対する時は、この世始めた元なるぢばに元のをやが踏ん張っているのだ、ということを心に治めて行くがよい。 (4) この道に反対する者も、親神の目から見れば、皆可愛いわが子である。したがって、お互いは皆、神の子であり兄弟である。たとえ取り調べに当たって、拷問を加えるような仇と思えるようなものに対しても、兄弟の理を治めて告訴などしてはならぬ。 (5) 官憲が、いかんと言えば「ハイ」、ならんと言えば「ハイ」と言うておけ。それによって、一つの理が定まるのである。神はどんなことも見ている。 (6) 教えの理を曲げてくるが、曲げたら曲げただけ、今後道の理が伸びて行くのである。 (7) 官憲の干渉によって教義や祭儀の変更を余儀なくさせられるが、子供可愛い親心の上から一時許すのである。 (8) 官憲の干渉を受けた時こそ、お互いが真実の兄弟であるという理を心に治めて、道の上に「一つの理の台」を作るべき大切な時である。心さえつなぎ合えば、道は開けて行くのである。 \n\n 教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。