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今日昼のおさしづは二十七日に十年祭というさしづの処、五年祭の日記を調べたれば、二十六日は五年祭、二十七日は大祭執行の事に記してありましたから、如何にして勤めまして宜しきや伺

さあ/\尋ね返やさにゃなろまい/\。分かろまい/\。さあ/\これまあ/\、今の処変わらんようと言うて話したる。二十六日々々々々というは今の今には変わろまい。十年祭月々大祭々々、これ一つ聞いて理を治めて居る処、今の処一つの理に集めるというは分からんから、諭したる。月々二十六日として月次祭もあれば大祭もある。一日あいを空けて十年祭と言うてさしづしたる処分かろうまい。二十六日という、月々理と理とをあらためて、事情のあったのは生涯の理。よう聞き分け。又一つ二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである。後先二十七日と又一つの理を諭したるは、二十六日は年々の大祭として、前々変わらんと言うたるは分かろうまい。五年祭の理と、十年祭の理とはなか/\の理。さあ/\二十六日は夜に出て昼に治まりた理。十年祭は後でも先でもだんない/\。いずれも一つの理に治まりて了うのやで。分かりたやろ/\。

押して、鉄道会社より新聞紙へ広告せし事情もありますから、十年祭を二十五日に勤めさして頂きても宜しう御座りますや
さあ/\尋ねる処/\、それ尋ねゝばなろまい。それやから後でも先でもだんない。夜に出て昼に治まる。これ台であるから、これ一つ諭し置こう。

又押して
さあ/\尋ねる処/\、前以て尋ねさえすれば事情は無い。後々の事情は前後するからどんならん。そこで先に尋ね出ようと言うたる。世界運んだる事情あろうから、後やからどう先やからどう、どうしたのがいかんと言うのやない。子供のした事やから、どんな事したからいかんと言うのやない。いかんとは言わん。とかく心の理を合わせて通りてくれば受け取る。これ一つ諭し置く。

当日出張警官の小屋掛五箇所願
さあ/\尋ねる処/\、そういう事は、どうがよかろうこうがよかろうという談示の理に委せ置こう。
【説明】
(1) 二十六日という日柄は、神が教祖に入り込んで、この道を始めた日でもあり、また教祖がその現身をかくした日でもあるが、そのどちらもが子供可愛い一念からで、子供たすけたいとの親心の上からは、その理は一つである。その意味からするならば、年祭の式は二十六日の後でも先でもよいので、先に二十七日に勤めるもよいと諭したのは、二十六日は例年通り大祭の日として勤めるべきであることをさしづしたのである。このように二十六日のつとめを変わらないようにするがよいと言っていることが、お前たちには、まだよくわかっていないようである。もとより五年祭の理といい、十年祭の理といい、それは重大な理ではあるが、その理を勤めるには、二十六日は世界一列たすけるために神が夜に出たこと、更に世界一列たすけるために教祖が昼に身をかくされたという最大最高の理のあることを思案しなければならない。そして、この理を心に治めて勤めるならば十年祭の祭儀は、その二十六日の後でも先でも差し支えないのである。いずれにしても、それは一つの理に治まってしまうのである。ここで諭したら、お前たちもわかったであろう。 (2) なるほど尋ねなければならんだろうが、だからこそ前にも、二十六日の後でも先でもかまわないとさしづしてある。夜に出て昼に治まる治まるということが、この道の根本であり土台をなすものである。このとこを、しっかり諭しておこう。
【摘要】
教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。

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