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内務省訓令発布相成りしに付、心得まで伺

さあ/\いかな事も言うて来る/\。皆これまで十分話伝えたる。どんな事しようと思うて成るやない。今一時尋ぬる処、どういう事もある/\。尋ねる処、どんな事もすっきり取り調べさす。取り調べさすと言えば、おかし思うやろ。地方庁や、願う/\、却下や/\。どうしてもならん。時々の処にてはどうもならん。皆すっきり寄せて了う/\。尋ねにゃなろまい。一時見れば怖わいようなもの。怖わい中にうまい事がある。水が浸く、山が崩れる。大雨や/\。行く所が無いなれど、後はすっきりする。今一時どうなろと思う。心さえしっかりして居れば、働きをするわ/\。反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉々々でさしづしてある。これはというようなものは、さしづがさしづやないと言う。世界の反対は言うまでやない。道の中の反対、道の中の反対は、肥えをする処を流して了うようなもの。こんな所にこんな事があったかと。鮮やか分かる程に/\。必ず/\悔むやない。悔むだけ心を繋げ/\。これからは、どうでも皆集める程に/\。山が崩れる、水が浸く。雨風や。何処へ駈け付く所も無いというようなもの。泥水すっきり流して了う。泥水の間は、どんな思やんしてもどうもならん。心一つの理を繋げ/\。いかんと言えば、はいと言え。ならんと言えば、はいと言え。どんな事も見て居る程に/\。

会議の決を願(会議の点九点)
さあ/\前以て事情諭したる。泥水の中というは、何処へ駈け付こうかというようなもの。一時泥水の中やから見て居る。尋ねる処は皆こうしたらよかろうという処、それはいかんとは言わん。落ちて了てからどうもならん。無くなってからはどうもならん。泥水の中でもあちらへ這い上がり、こちらへ這い上がりすれば、どうなり道が付く。これがいかんと言えば、はいと言え。これより這い上がる道は無い。もう安心の言葉を下げて置こう。これがならんと言えばはい、いかんと言えばはい、と、答えて置け。

祠宇建築に付伺
さあ/\尋ねる処/\、それは心に持って、又ぼつ/\。
【説明】
(1) 内務省訓令第十二号は明治二十九年四月六日、時の内務大臣吉川顕正によって秘密裡に公布された天理教取締りに関する訓令で、これによって本教は、全国的な大弾圧を受けることになった。 (2) 内務省訓令が出て、心配で尋ねているが、どんな事もすっきり取り調べさすのである。取り調べさすと言えば不可解なことのように思うであろうが、神がさせているのである。 (3) 一時見た眼には怖いことのように思うであろうが、実は、その中に深い神の思惑がこもっているのである。ちょうど水が浸き、山が崩れ、その上大雨で行くところがないような状態であるが、その中を通りきれば、あとはすっきりと治まってくる。今のところどうなるだろうかと案じているが、心さえしっかりしておれば、あとは神が働きをする。反対するものも皆可愛いわが子である。信じてくれるものは尚更のことである。たとえ信ずる者といえども、神のさしづを用いない者は反対する者と同様である。 (4) 世間の反対は言うまでもないことであるが、道の中の反対は、折角肥しをするところを自分で流してしまうようなものである。今にこんな所にこんなことがあったかとわかる日が来る(のちの安堵事件や前橋事件を予言されている)。 (5) 今度のこの事情によって、泥水をすっきり流してしまうのである。泥水が屋敷内に渦巻いている間は、どんな思案をしてもどうもならん。要は、この際心を一つに結ぶことである。そして、もし官憲が、いかんと言えば「はい」、ならんと言えば「はい」と言っておけ。どんな事も神は見ているほどに。 (6) 尋ねるところは皆で相談して、こうしたらよかろうと決めたことであるから、それはいかんとは言わん。ただ泥水の中に落ち込んでしまってからではどうもならん。また何もかも失ってからではどうもならん。だから泥水の中でもあちらへ這い上がりこちらへ這い上がろうと努力さえすれば、どうなりこうなり道がつくものである。  会議の点九点の具体的内容はわからないが、内務省訓令に対処して種々協議されたであろう。 \n\n (1) この道に反対する者も神から見れば、皆一様に可愛いわが子である。ましてや、神を信じ道の理に添って素直に通っている者は尚更のことである。しかし、いかに神を信じていると言っても、神のさしづを用いないとすれば、反対しているのと同じである。これまでも道の通り方についてさしづしてきたが、それを主だった者までが、神のさしづとして受け取っていないことがある。そんな状態だから、世間一般の者が無理解から反対するのは当然のことと言える。しかし、道についていながら道に反対するのは、ちょうど折角肥をい置いた所を流してしまうようなものである。そんなことをしたら何の実りも得られない。こんな所に、こんなことがあったのかと今にその実態が現われて、万事はっきりとわかることであろう。  このおさしづは明治二十九年四月六日、天理教取締りに関する内務省訓令が発せられ、このため当局の取締りや圧迫干渉は一層激しくなり、祭典や説教も中止させられ、布教活動もいちじるしく抑圧せられ、そんな状態の中で、いつしか道の中での不平不満が生じ、ついには道から離反する者も相次いだというような事情において伺った時のおさしづである。 一、たすけ一条の親心からすれば「反対するも可愛我子」であり、反対するのは道の理を知らないから、とする無条件の愛の立場が明かされている。 二、しかし、道の中の反対は、知った上のことであり「肥をする処を流して了うようなもの」と言われ、おろした種子に肥を置くべきところを、逆に流してしまい、何もかも無駄にしてしまう行為であると戒められている。 三、 なお「こんな所にこんな事があったかと、鮮やかわかる程に/\」という予言は、翌年起こった安堵事件や橋本清などの謀反などを指したものと考えられる。
【摘要】
(1) 官憲の干渉は教内を掃除するふしであって「泥水をすっきり流してしまう」ようなものである。したがってそれは官憲の取り調べを受けているのではなく、親神が「取り調べさす」のである。 (2) 官憲だからと言って、決して、おめ恐れることはない。この道は何もないところから、幾多のふしを通って今日の道になっているのである。 (3) 官憲に対する時は、この世始めた元なるぢばに元のをやが踏ん張っているのだ、ということを心に治めて行くがよい。 (4) この道に反対する者も、親神の目から見れば、皆可愛いわが子である。したがって、お互いは皆、神の子であり兄弟である。たとえ取り調べに当たって、拷問を加えるような仇と思えるようなものに対しても、兄弟の理を治めて告訴などしてはならぬ。 (5) 官憲が、いかんと言えば「ハイ」、ならんと言えば「ハイ」と言うておけ。それによって、一つの理が定まるのである。神はどんなことも見ている。 (6) 教えの理を曲げてくるが、曲げたら曲げただけ、今後道の理が伸びて行くのである。 (7) 官憲の干渉によって教義や祭儀の変更を余儀なくさせられるが、子供可愛い親心の上から一時許すのである。 (8) 官憲の干渉を受けた時こそ、お互いが真実の兄弟であるという理を心に治めて、道の上に「一つの理の台」を作るべき大切な時である。心さえつなぎ合えば、道は開けて行くのである。 \n\n  道を辿る上で大事なことは、一手一つの和であると言える。ところが万一、いろいろな事情の中で、そうした和を欠き、道の理にそむき、道から離れて行くというような者があった場合、そのことをどのように思案し、また、それをいかに扱えばよいのか。これを飯田岩次郎・橋本清の二人にかかわる事件をめぐって伺ったおさしづを通して理解しようとしたものである。 (1) 道の上に我はいらない。自分勝手な心があるから道を間違うことになる。だから、そんなことがあったならば、できるだけ早いうちに治めることが大切である。 (2) 間違って道を離れて行く者があったならば、その者が長い年限の間この道につき、道の上でつくした理を十分に考えて治め方をつけて行くべきである。そのためには、どこまでもつないでいく努力をしなければならない。 (3) 元の理の納得を与えることが大事である。教祖の理、ぢばの理という道の根もとを、しっかり心に治めさせることが大切であり、それが治まっていてこそ、すべてが成り立つことを諭してやるべきである。 (4) それでも離れて行くのならば、もはや致し方がない。悪がはびこったならば、その波及するところは大きいから、人間思案の義理に流れ、誤った理をほかに重ねることがないように整理せざるを得ない。

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