おさしず検索


平野トラにおさしづ

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\まあ/\長らえての事情、今一応身上障り尋ねる。どういう事と思う。成る成らん、行く行かんの心の事情、幾重の思案。なれども鮮やかならん。よう聞き分け。身上どういう不足無きものなれど、事情という、事情にはいかなる事情もある。何が違う、どれが間違いという。よう聞き分け。内内一つの中とも言うてある。だん/\の事情、幾重の事情重なり/\理が有りてあれば理は無きもの。よう聞き分けにゃならんで。めん/\心に事情、理を沸かしてはならん。日々という、身上に不足ありては楽しみは無い。今日はよいか、明日はもうよいか。どうも今一時速やかならん、だん/\と言えば、どうも心に楽しむ理はあろうまい。まあどういう事もこういう事も成りて来た。事情長いようでも短いもの。経った後見れば短い、先思えば長い。今日もこう/\、明日もこう/\、何でもという。日々事情見る聞く中に、どうも判然出来難くいという。日々事情、心という理は幾重の理もある。こうしたらなあと思えば、あちらへちょいとこちらへちょいと廻る、曲がる。これだけ曇りた理は、ちょいとにほどけん。この道というは、心一つの理に留まる。その心という、一寸揺げば、どうでもこうでも思い返すは暇が要る。これだけ堰したらと思う。これとも一時に流れ込む。水はあちら切れ込みこちら切れ込み、どうもならんもの。よう聞き分けにゃならんで。いかな道、一時どうやろうこうやろと思う。なれども、後を見れば何でもないようなもの。よう聞き分け。何も外したのやない。皆外されたのや。この道という、道に危なきはない。何も探られる事は無い。よう聞き分け。このさしづというは、なか/\容易ならん諭である程に。所々名称々々数あるうち、最初一つの理より変わらん理で押せば変わらんなれど、どういう一つの事情より、めん/\勝手々々の理の出るからどうもならん。日々にもよう重々の理を諭せ。軽いものと思えば軽いもの、重いものと思えば何ぼでも重い。心に曇り跨がりの理ありてはならん。日々互い/\の心を集めてくれるよう。

押して願
さあ/\尋ねる処/\、事情余儀無くの事情を尋ねる。どうも心というものは、たった一つの心で成る成らんはあろうまい。長い事やないで/\。皆見えて来る。皆んなこれ同じ中にも、話一つの理はよう知って居るやろう。知らず/\やない。ほのかの理に巻かれ/\、一時どうしょうこうしょう、これは出来ようまい。日が経つ月が経つ。ほんに見えたなあ、ほんに早かったなあと言う日がある。前々ほのかにさしづも聞いたなあ、さしづ通りに成りたなあと言う。重々に結ぼれた理は、初めやら仕舞やら分からん。端と端と理から定めにゃ分からん。中程からはどうもほどく事は出けん。一つの口がほどけ掛けたら、皆それ/\独りほどけて来るやろ。又ほどかにゃならん。端と端とが、どうもほどき難くい。ほどく理が分かりてありてほどかれん。一人ほどき掛けたら、どうも一つの理がなあ/\、何でもないと思て来る者が、どんな働きするや知れん。軽い者が重うなる、重い者が軽いやら、これも分からん。初めから縺れたのやない。聞いた者は、元々分かりたる者もあろ。よく/\聞き分けてくれ。
【説明】
(1) 堅い堅い決意のもとに会長に就任したとしても、いつの間にやら自分勝手の思案が出てくる。これではならないと、平野楢蔵氏(郡山大教会初代会長)夫人の身上を通して戒められたおさしづ。 (2) 今日はもうよいか、明日はもうよいか、と、なかなか病気が回復しないようでは楽しみない。その元は心なのだから、そんな事情を起こすような心をもってはならない。 (3) 何でもどうでもという真剣な気持ちで通ってきた。それなのに、どうも理解できない事情が起こると思うであろうが、その元は結局心なのである。それはすぐ曲がるものなのだ。しかも、その心は、ちょっと揺らぐと思い返すのには時間がかかる。 (4) 国々所々にたくさんある教会名称の理も、会長就任の時から変わらない一すじ心でつらぬき通せば、親神の守護も変わらないが、どうかした拍子に、自分勝手な考えが出てくるから困ったものだ。 \n\n (1) 人間の心というものは、こうしたならなあと思えば、あちらへちょっと、こちらへちょっと曲がりやすいもので、その結果の曇った理が、ちょっとにほどけんようになったのである。この道は心一つの理が元で、すべてそこに留まる。その心がちょっと動揺すると、元に思いかえすにはなかなか時間がかかる。人間心で堰をしても一時に事情が流れ込めば、どうにもならない。 (2) 所々に名称が散々あるが、最初許された時の真実一つの変わらん理でずっと通るならば、親神の守護も変わらないが、一つの事情からめんめん勝手の理が出るからどうもならん。名称の理というものは軽いものと思えば軽いし、重いものと思えばどんなに重い理があるかもしれない。皆の心に曇った心、真実一つでない跨がりの理があってはならん。すっきりした心で、日々互い互いの心を一つに集めるよう。 (3) 日が経ち月が経てば、ほんになるほど、さしづ通りになったなあというようになるのであるから、神のさしづ通りに治めよ。 このほか明治28・6・5のおさしづにも、さしづは神がするのである。人間の想像で理をこしらえて、人間の理で諭してはいけない。さしづに従って治めるなら間違いない、という意味のことを述べられている。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。 \n\n  現在、本部直属教会については「天理教協規規定」に、大教会ならびに本部が特に承認した分教会は直属教会とされ(教規第三十八条)、また大教会については部属教会数五十以上で、よふぼくのうち教人三百人以上を有するもの(一般教会規定第二条)と規定されている。  現在の教会の昇級分離は、上の規定に従い願い出によって本部から許されているわけであるが、おさしづをいただいた時代(明治四十年まで)は、親神の方から、その教会関係者の身上を通して昇級分離を促され、それを契機として願い出て許された場合と、教会の方から親神に昇級分離をお願いして許された場合とある。  明治四十年までに分離を許された教会は七ヶ所あるが(菅原村講は永神講から分離を願い出たがお許しなかった)、そのうち日本橋・湖東・甲賀・水口・大県は前者に属し、中和・島ヶ原は講社に属する。  が、元より分離についての心の治め方は、前者についても後者についても同様であって、以上八カ所(菅原村講も含む)について、おさしづから分離についての治め方の要点を求めれば、次のように考えられる。 (1)教会の昇級分離は、分かれるのであって離れてしまうのではない。この理さえ心に治まれば、いつまでも十分治まる。 (2)本部直属となる十分な教勢のないものを分離するのはいけない。分離を考えるよりも、元へのつくし運びを楽しみに通れ。 (3)教会は皆ぢば一つから許されたもので、部属の教会・信者も、その修理肥えはぢばからするのである。部属先々に花が咲き実がのるのは、元のぢばからの修理肥えがあるからである。 (4)この道はぢば一つから始められたものであって、分教会(直属教会)も支教会(部属教会)も元は一つである。 (5)したがって分教会も支教会も、その理は同じであって、分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (6)教会は皆分教会(本部直属)となる理があるのであって、名称の理を下ろした時から、この事情ははじめかけてある。 (7)分教会に昇級して、なおかつ分教会の部属のままにしておくということは許せない。分教会に昇級を許されたら本部直属としての他の分教会と同じ理がある。 (8)上級と部属が昇級分離事情について、お互いに気が合わんと言っているのは双方に人間心があり、めんめん勝手の心が出るから、うまくいかないのである。 (9)日が経ち月が経ってみたら、なるほどさしづ通りになったという日があるから、さしづ通りに治めよ。 (10)神の方からどうせこうせと言っても、皆の心が親神の心に添い、揃わなければならないから、よく談じ合いをして定めよ。 (11)どうでもこうでもという、みんなの寄った精神の理に昇級分離を許そう。一手一つが神の望みである。互いに心を寄せる頼もしい心の理が、末代の理となるのである。 (12)分離しても、これまでのお互いの道を忘れんよう、兄弟としての心をもって心をもって仲良く通ることが肝心である。

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