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平安支教会長飯田岩治郎事情に付願(神様御下りありと申し立て曰く『この屋敷は二つ無き水屋敷、元なる者は何んと思うぞ、この度は平安より往還の道つける皆心勇み出よ』と、その他種々申し立て尚飯田に月読の神御下り其御指図故本席より誠の神と言って分かり来るとの事に付、平安より役員春木、松尾、田中、森中、西本、重役五名罷出で、本部長へ上申の上本部員立ち会いの上願)

さあ/\尋ねるやろう。尋ねにゃ分かろうまい/\。尋ねたら事情分けてやろ/\。これまでこれめん/\道のため、教祖からと言うて諭したる。毎々諭したる。教祖に心映して年限の道。いつ通りたか分かるやろう。よう聞き分け。一軒一戸親兄弟一つの理から諭そう。よう聞き分け。一列は神の子である。憎い可愛の隔て無い。日々に可愛皆諭すやろう。話した処が数々覚えて居られん。どれだけの放蕩したとて、どうもなろうまい。どちらの理もあろう。何処の理を諭してやるのやあろまい。始め掛けたる理を伝うたる。取り損いありてはならん。無理にどうせいとは言わん。人間というめん/\の理で思い違いすればどうもならん。前々尋ねた理に諭したる。一も取らず二も取らず。めん/\心出したら、皆根を忘れて了うも同じ事。珍しい事と思えば、一時は通れるやろう。なれど、教祖の理を聞き分け。年限長らく日でありて、可愛々々で一寸道を付け掛けたばかりや。未だ/\日が遅れる。踏み被りしてはならん。これ聞き分けば分かる。どんな事でも言うて行けば行かる。思い違い無いよう。これが間違うてあると思えば、一つ答せい。

押して七月三十日(陰暦七月一日)に飯田へ神下り、筆先と申し、二つ無い水屋敷其外いろ/\御指図ありましたは実ですや、心の迷いですや願
さあ/\尋ねる。それが、答であろう/\。水屋敷と言うた事は無い。人に授けたる。又、変わらん理を伝えて、代々変わらねば、屋敷の理ともならんでもない。三代四代経っても、代々変わらねば又水屋敷も同じ事。よう聞き分けば分かる。

暫くして
さあ/\一時今始めた処で、どうという理はあろまい。よう聞き分け。これまであちらにもこちらにも、どういう事もありた。なれど、皆長らく遂げる事出けん。日日皆言う人にかりもの心でどうと思えばどうとも思わる。成程尋ねたる。成程という理を聞き分け。あちらにも信徒、こちらにも信徒と言う。教会や出張所と言う。名称下りたる理、何処から出たるか。これ、聞き分けたら分かる。数々こうしたらどうという処、早く通り直せ/\。

又、暫くして
さあ/\もう一つ話する。此処までこうと思た。神という、世界心と思うから出たであろう。よう聞き分けば、そうやない。聞き分けば真実分かる。こうしたら真実の所へ立ち帰る事出けんなら、又理を変えてという、一つの思わくも出るであろう。よう聞き分け。これ聞き分けば、成程真に理が治まるで。

又、暫くして
もう一段話する。平安という理が一つある。これまで互いという理が一時忘れられようまい。この場で成程と思えども、あちらへ戻ればどうと思やんは要らん。教祖一つの話、存命同様の理である程に。

又、暫くして
又一つ話、明日から心治まれば同し事、互い/\心はどうしたぞいなあというようなもの。これも又皆精神にあろう、とさしづして置こう。
【説明】
(1) この道は、長の年限を教祖の心に添って通ってきたからこそ、ついてきたものである。 一軒一家の者と言い、親子兄弟姉妹という根本の筋道を持って諭そう。一れつの人間は神の子である。だから、憎い可愛いなどという分け隔てはしない。神が日々に子供可愛いいっぱいの親心をもって守護していることは、みな諭しているであろう。 可愛い子供のことであれば、たとえ、どんなに放蕩しても、どうとも仕方がないであろう。たしかに言い分は、それぞれにあるものである。しかし、そのいずれが是か非かを諭してきたことはなかろう。人間を始めかけた元の理を伝えたのである。その点を取り損なうようなことがあってはならない。 (2) めいめいが自分勝手な心を出したら、本当のところを取り違えてしまう。そんなことをしたら、すべてがそれに基づく根もとを忘れてしまっているのと同じことになる。いつかは枯れてしまう。珍しいことと思えば一時は通れるかもしれないが、長く続くものではない。大事なことは教祖の理を治めて通ることである。 (3~4)この際それを始めたと言っても、どうということはなかろう。これまでにも、あちらこちらで、いろいろ問題になることがあった。しかし、それはいずれも長続きはしていない。  あちらにも信者がいる、こちらにも信者がいると言う。また、教会や出張所と言っているが、その名称の理は、どこからおろしたのか。その点を、よく思案しなければならない。それが聞き分けられたならば、すべて治まりがつくものである(すべては、ぢばの理を受けて成り立っていることを理解することが大切である)。 (5)明日からでも心が治まるならば、これまで同様に扱うであろう(今からだって改めるには遅くない)。こんな状態では、互いに、どうしたことだろうか、と心が通じ合わず困ったものである。これも精神のあり方一つに、かかっているのである。
【摘要】
道を辿る上で大事なことは、一手一つの和であると言える。ところが万一、いろいろな事情の中で、そうした和を欠き、道の理にそむき、道から離れて行くというような者があった場合、そのことをどのように思案し、また、それをいかに扱えばよいのか。これを飯田岩次郎・橋本清の二人にかかわる事件をめぐって伺ったおさしづを通して理解しようとしたものである。 (1) 道の上に我はいらない。自分勝手な心があるから道を間違うことになる。だから、そんなことがあったならば、できるだけ早いうちに治めることが大切である。 (2) 間違って道を離れて行く者があったならば、その者が長い年限の間この道につき、道の上でつくした理を十分に考えて治め方をつけて行くべきである。そのためには、どこまでもつないでいく努力をしなければならない。 (3) 元の理の納得を与えることが大事である。教祖の理、ぢばの理という道の根もとを、しっかり心に治めさせることが大切であり、それが治まっていてこそ、すべてが成り立つことを諭してやるべきである。 (4) それでも離れて行くのならば、もはや致し方がない。悪がはびこったならば、その波及するところは大きいから、人間思案の義理に流れ、誤った理をほかに重ねることがないように整理せざるを得ない。

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