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高安分教会新築に付、松村吉太郎心得のため願

さあ/\尋ねる事情/\、事情はなか/\これまでの事情、楽しみ/\と言うて掛かりた事情。楽しみの中に又事情そうじゃないとも言う。多くの中なら一寸に思案は付こうまい。尋ねるから諭す。よう聞き分け。皆んな心の理の集まりたる処が、世界まあこれまでは、あの人/\、この者/\、皆寄り合うて出来立ちた。これまでの事情、一人や二人でどうしようこうしようと言うて成るものやない。皆んな心の寄った理より運ばにゃならん。銘々こうと言うたて行くものやなし、よう聞き分け。行く事情も相談の台、行かん事情も又相談の台とも言う。一寸には怖わいようなものや。なれど、何にも案じる事は更に無いで。大き川越そと思えば、大きい心持たにゃ越せん。小さい川なら、ぽいと越せる。あちらも眺めこちらも眺め、思うた一つの理なれど、怖わい事は無いで、恐ろしい事は無いで。これだけ諭したら十分の理である。
【説明】
(1) 松村吉太郎氏、高安大教会初代会長。 当時、高安分教会(現高安大教会)の普請は棟上げまで済んでいたが、明治二十九年四月六日に内務省の秘密訓令が出されたあととて、教内全般に心が沈みがちであり、高安の普請も途中で行き詰まってしまっていた。このような上から伺われたのが、このおさしづである。 (2) 教会の普請というものは、一人や二人の力でできるものではない。多くの者が心を寄せ合うからできてくるのである。また普請中には、思うように事が運ぶこともあれば、思うように運ばず、行き詰まることもあろう。しかし、いずれにしても皆が心を一つにつなぐためのねり合いの台となるのである。したがって、何も案じることはいらない。大きな御用を勤めようと思うならば、目先のことに心とらわれて小さい心になるでなく、大きな心になることが肝心である。
【摘要】
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。  そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。  そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。

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