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島ケ原支教会長万田万吉妻出直し後、後々心得のため願

さあ/\事情を以て事情尋ねる。前々事情諭したる。どうも事情の理/\、余儀無く一つ事情、いかなる事、どういう理と思うは、実々の理であろう。あろうなれど、よう聞き分けてくれ/\。これまで長らえての道/\、あちらでもこちらでも、どうも一時なあ、何たる事、思い/\の道を通り来た。中に一時の事情、何たる事と思うやろう。思うは余儀無くの事情。よう聞き分けてくれ/\。この道を弘めるも、紋型無き処より、だん/\年々の道という。この理は皆々の心にも治まりあるやろ。この理を聞き分けてくれるなら、何かの事も鮮やかという。なれど、内々判然は出来ようまい/\。よう聞き分け。所に一つの事情を始め掛け。堅くの理を話す中に、どういうものと思う。又たすけ一条や/\と言う。何がたすけ一条と思うやろ。一代の中に一つの不思議、いかなる理と思うやろ。思うはなか/\の理である。難儀不自由してこそ理の種と言う。この理は何たる理と思うやろ。一時の道はどうなろうと思う。年が明けたらよう/\の道になるやろ、と思う。中に何たる事どういうものと、めん/\も皆々も思うやろ。よう聞き分けてくれ/\。この道始め掛けたるというは、よう聞き分け。年は何年何月にどういう事情があった。若き強きが先に立ち/\、ようこの理を治めてくれ/\。一代限りというは、今まで聞いた世界の理であろう。この道の理というは、将来末代の理。この理は諭しても居るやろ。なれど、忘れるに忘れられんというは、返す/\重々の理である。なれど、よう聞き分けてくれ。我が子も先に立て、楽しみも先に立ち、後々世界ひながたという。この理をよう聞き分けてくれ。どんな不自由艱難も出来んやあろうまい。さあ/\いかなる道も、これより一つの理という。
【説明】
(1) 万田万吉氏 島ヶ原大教会初代会長。 (2) 教会長の家内が出直した。これは一体どうしたことだ、と思うのも無理はない。 (3) 人間は一代限りでなく、生まれ変わり出変わりすると、この道では教えられている。また諭してもいる。しかしながら家内を失った痛手は忘れるに忘れられんというのは、もっともなことだ。とは言っても、わが子を先に出直させ、楽しみもない中を勇んで通って、ひながたを遺した教祖のことを思い浮かべるなら、どんな不自由艱難の中も通れるであろう。 \n\n (1) これまでの長い道中で、あちらこちらで一時思い思いの道を通って来た。そういう中に、この事情ができたのであって、これをどうしたことと思っているであろう。それももっともなことだが、よく聞き分けてくれ。この道がひろまって来たのも、何もない所から年々だんだんと道がついてきたことを皆々は、よく心に治めているであろう。この理を聞き分けてくれるなら、何でも鮮やかにわかるであろう。 (2) 島ヶ原支教会を始めかけ、堅くお道を通っているのに、妻の出直しということは、どういうものと思うであろう。またたすけ一条やたすけ一条やと言いながら、これでは何がたすけ一条やと思うやろう。また、一代の中に一つの不思議があらわれてくるのを、どういう理と思うであろうが、難儀不自由してこそ、それが道の種となる。若いもの、元気のいいものが先に立って、この理をよく心に治めてくれるように。一代限りというのは、世界で聞く話であって、この道の理は将来末代の理である。教祖は、わが子も先に立て楽しみも先にして、あとあとまで世界のひながたを残している。このことを、よく聞き分けて、どんな不自由難儀の中も勇んで通るように。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。 \n\n (1) 出直しはすべて、その人のいんねんに基づいて、親神のなさることである。出直してもまた、この世に生まれかわらせていただくのであるから、この事情を一つのふしとして神意を悟り、よくそれを心に治め、たんのうして勇んで通ることが大切である。 (2) 親神は早く出直すところを、その人の心定めに応じて、引き伸ばしてくださったり、また身代わりの出直しをさせてくださることがある。いずれも親神の守護によるものである。 (3) 出直しという事情に際しては、お互いに淋しい思いをさせず、皆が心を寄せ合い、たすけ合っていくことが大切である。 (4) このお道は将来末代の理であるから、どんな難儀不自由の中も、将来を楽しんで勇んで通っていくことが肝要である。

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