おさしず検索


増野正兵衞十五日城島分教会より帰り風邪にて熱あり、又おとも十日頃より夜々無理言い熱強く障りに付願

さあ/\尋ねる事情/\、小人の事情一時尋ねる処、小人の事情どういう事であろう、思う処尋ねる。小人の事情は何も案じる事要らん。案じる事要らんが、小人の事情は親一つ事情、これ言うまでであろう。一つ諭しよう。又めん/\心得ん事情尋ねる。尋ねる事情/\、又一つにはよう聞き分けにゃなるまい。何か事情掛かる事情、そんなら身上障る。どういう事よう聞き分け/\。何か事情掛かる。掛かる理には重い理ばかり掛かる。何の事情どころやない。たゞ難しい事情で、どんとどうもならん。年取れば多く戻る理と事情連れて帰る理である。又中に事情、この事情どうもならん。又めん/\一名の理であろまい、又思わりょまい、又あろまい。よう聞き分け。難しい中やで、難しい中やで。何事言うもどう言うも、身上から尋ねたらさしづ。尋ねたらさしづ用いらにゃなろまい。用いれば鮮やか思えども、事情何の事情によらず、たゞ一つの事情でないで。もうあら/\事情は言うまで分かりある。たゞ心というはそも/\事情で、一年暮らした/\。よう聞き分け。話々の理で集まりて居る。目に見ん先から何も分かろまい。通りて来る事だけ分かる。又重いと思うて持ってみれば軽い。提げてみて、中どういう物有るか無いか分からん。蓋取りてみたら分かる中に、時々刻限々々知らし置いたる。刻限諭した事は間違った話してない。皆心病み、人間心病み、人間の心を立てゝ神の理そこ退け。そこで、どうもならん理になる。暗がりの理を以て通るから、暗がりになりたら足もと暗がりになる。何も分からん。善い者も悪い者もどし込み。年を越えこれから分けるで。多くの中捨てたる処、放って置かれん。身上尋ねた、こういうさしづありたと、皆の理に聞き分け。それ/\伝え、残る理はこれまでの理はっちゃ残らせん。残る理は誠一つ残る。どれだけ崩れて了ても残る理、皆答えてくれにゃならん。これまで何をしたんやら、人間心立てゝ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るか無いか、よう聞き分け。めん/\身上尋ね、こういう際と何か事情。この事情台と成りて、これまで諭したる理、夜々時々刻限諭したる理、皆寄せてみよ。一つの理に留まるであろ。一手一つに皆結んでくれるなら、どんな守護もする。

一寸して
さあ身上案じる事要らん。人間この事情聞き分け。人間些かなる事情大層になる。大変事情になる。腐り種になる。腐りた理回せば腐りた理が回る。どういう事になるやら分かろまい。皆これだけ話すれば、又ほんにという処分かるやろう。

押して、前川菊太郎の事も善悪仕切りて運びますから願
さあ/\もうこれ一年の日の終り、月の終り、年の仕舞、年明けたら又候実際ありてはならん。内々事情と、外の事情と振り替わりた。内外振り替わり事情という。これが世界の道理という。内外振り変わりて何処に立つか。成程考えてみよ。
【説明】
増野正兵衛、本部員。 子供の身上は、親の心違いが現れているのである。これは今更いうまでもないことであろう。 まだ心が仲違いして一年くらして来た。 人間心を立てると、一寸した事情が大変な事情になり、腐り種子になる。風邪にて熱あるのは、人間心を立てず、一手一つに皆結んで通れ。ということを指示されたのであろう。 \n\n (1) 敷島大教会初代会長上村吉三郎出直し後、内部の勢力争いが表面化し、二カ年という間無担任のまま過ぎ去った。この時増野正兵衛氏は本部から整理員として任命され、城島の整理に当たることになった。この間にいただいたおさしづ。 三十年十二月に会長事務取扱いの整理員となり、紆余曲折を経て結局増野正兵衛氏の身上のおさしづから、明治三十二年六月十八日、二代会長に山田伊八郎氏就任。 (2) 時々刻限々々に知らせおいたが、刻限に諭したことは間違ったことは話してない。それにもかかわらず、勝手な人間思案から苦しんでばかりいる。大体、人間思案を先に立てて、親神の思召を素直に聞かないから、どうにもならないことになるのだ。
【摘要】
風邪は人間思案を先に立て、神一條の理をうすくし、不足のほこり心を遣ってはならない、ということをさとしていられる。風邪のため熱があるのは、人間思案の上から、一列兄弟の理を忘れ、一手一つを欠き、すれ合ってはならぬ、ということをさとしていられる。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

TOP


お道のツール