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郡山部内津支教会事情願

さあ/\尋ねる事情/\、あちらこちら事情にてどうも一時道という、たゞ一つの理で治まらんという。人間の心の理で治まらん。あちらこちらどうも分かり難ない理であろう。元々最初からの事情より諭して心に治まらねば、事情はどうも治まらん。道の事情に他の事情は要らん。道に間違いは無い。心の間違い。道の理に心の添わんというは、人間心の間違い。道の理と心の理と合わねばならん、合わさねばならん。何でもどうでも限り無きものは、世界の事情より運ばにゃなろまい。まあまあ篤っくと諭してやれ。道の理に添うなら、何にも言う事はなろうまい。なれど、いつまでもならん/\ではなろうまい。篤っくと諭してやれ。
【説明】
(1) 津支教会は明治二十五年八月設立のお許しを戴いたが、開筵式当時の借財、遠国布教のための出資の未整理のまま内務省秘密訓令の影響を受けて経済貧乏に陥り、これが原因してか、支教会内においては会長(初代会長川本由蔵氏)と二、三の役員との間に内紛が絶えず、会長は郡山初代会長の命で一時郡山へ引揚げとなり、郡山、中和から事情整理に当たったが治まらず、教勢は次第に沈滞、以後十余年間どん底時代を通った(「津大教会七十年の歩み」参照)。 (2~3)道の事情治めに世界並みの考えはいらない。道の理に間違いはないので、事情となるのは人間心の間違いである。道の理に心の添わないのは人間心の間違いで、心の道の理に合わさねばいけない。心が道の理に添うなら何も言うことはない。
【摘要】
本項では(3)教会事情の中で上げた後継者、担任、移転、教会経営、分離、昇格、所属変更、制度、改称の各講で取り扱わなかった教会の治め方に関するおさしづを、ここにまとめてあげることにした。  お諭しの内容から見ると、上各項の補足的なもの、また重複すると思われるものもあり、内容的には、講名の統一、教会の焼失、財政的行き詰まりのふし、会長と役員、役員と部内教会長の軋轢等々、その事情も雑多である。したがって要約も、ほかの項目のごとく直截にまとめることは困難で、それぞれの事情に対する神意は、それぞれのおさしづの註に記したところであるが、取り上げたおさしづから、あえて治め方の共通点を大雑把に拾えば次のように考えられる。 (1) 教会の治め方は、まず心を一つに寄せることが肝心である。何人いても皆が、心を一つに揃えて事に当たるなら治まりがつく。 みんなが身も心も治め方の上に力をつくすことが肝心。 理の上から強引に治めれば、大抵は通れるけれども、みんなの心をつなぐことが大切である。 (2) 教会が治まらないのは、互いに真実の心がないからである。誠一条の真実の心があれば、どんな難しい事情も治まる。一人でも真実の心の者ができたら、その心に乗って親神は十分守護下さる。 (3) この道に手引かれた元一日の心、また教会の理を許された元最初の理を、よく心に治め、その精神を台として治めるよう。 (4) あちらこちらの言い分を聞いてばかりではいけない、ぢばの理をもって治めるよう。 (5) 人と人との間柄は、皆互いに諭し合い、親神の思召しを伝え合って、一つ心に持ちつ持たれつ、互いに、助け合っていくのが道理である。この心が楽しみの理となる。  会長・役員・信者の間も、それぞれ、会長があって役員・信者があり、役員・信者があって会長がある。互いに我を張るのは理に添わない。互いに持ちつ持たれつ、たすけ合って通るのが治まる元である。 (6) 事情治めには旬がある。旬をはずさないように治めるよう。 (7) 無理に一時に治めようとしても行けない。急いで一時に言いたてれば、かえって事情のもつれが大きくなる。日に日に勤め、今年いかねば来年と、天然自然の理で治めるよう。 (8) その時その場の一時の思い立った理で治めても、その場は治まるが、いついつまでも治まる理にならない。教えの理を十分に聞かし、真実精神の理を積むよう、それを台に治めにかかるよう。 (9) ふしは理の伸びる転換期である。ふしからよい芽を出すのは皆の心の理にある。ふしに勇み心を入れ替え、みんな心を一つに理に添うていくなら、いくらも理は伸びる。 (10) 教会を取り消されても心さえしっかり理につながっていれば、長い間ではない、すぐ復興の守護を戴ける。

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