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先般梅谷たね、永尾おさしづより本部員会議の上農行衆なり日々本部で勤める青年に、月々一度宛御話する事、本部長の御許しに相成りしに付、神様の御許し頂き度く願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\いかな事情、いかな事情も尋ねにゃ分からん。さあ/\皆んなこれ多分の者、連れ戻りたる処、何か無しの日々の処では、とんとどうもならん。幼少の時から万事事情、日々治めすれば、日々治め来る。あら/\飛びさがした理は集め来た道理、世界又順序、一寸固まり掛け。実際固まりが一人万人の同じ心という。これ鏡やしきという。これまでとんとどうもならん。人に粗相あってもそのまゝ置いて置く。聞かん者はどうもならん。万事人間心ばかりで、たゞ天理王命と言う事ばかり、結構分かり、どういう理から集まりたる。世界の理、物が多分有る者も無き者も同じような事ではならん。よう聞き分け。これから先年限は、長いと言えば長い、数えて見れば短い。よう聞き分け。何かの事、人が知らんと思たて、知らん者は無い。夜も昼も皆映りてある。これ第一の理。これからどうでもだんないというような事ではならん。それでは育てようと思たて育てられん。そこでほんの義理や体裁を以て治めては何にもならぬ。十分治めようと思えばめんめん心次第。何でも彼でも心尽さにゃならん。心尽せば固まりて来る。少々では固める事出けん。元々台という、台無しに働いてはならん。よう聞き分け。蕾の花を生けたら一先ず見られる。なれど、日柄経てばほかして了う。これ皆んなの中、これ話の台という。よう聞き分け。月々一度の心の改め合い、話のし合い。心は随分下から行て、人の事してやるというはこれが台。放って置いても人がするというては、年限経っても同じ事。これ話して置く。尋ねる事情は、十分聞き取って十分受け取る。

押して、農行の方宮森与三郎、山沢為造両人取り締まる事願
さあ/\まあ大抵々々、年限通り来たる。その時時分、日々組み上げたようなもの何時でもその場へ持って来たら道具が揃たる。皆んなの下から積み重ねたる。そこで何処へ出たて粗相は無い。これ台として伝えにゃならん。又、一寸一つ話、どうでもこうでも、これまで二三度諭したけれど、あら/\は分かりある。なれど、人人替わりて、日々席順序一つ、何度諭したる。一寸こうして席のもの、十人なら十人、所の名言うて尋ねるまで、場所決め一々尋ねるまで身の備えこれ第一。中程でどうせいこうせいと言うては、続いた席の理千切れ/\の理渡すようなもの。これする者ある。忘れて千切れ/\の理渡してはならん。遠い所からさづけ受け取りに来るのに、千切れ/\の理渡してはならん。言葉僅かよう聞き分け。中程はあと思たら、一つ理聞き取るのは、言葉分からん。先はどうやったやら、中はどうやったやら分からんようではならん。そら筆を取りて渡してある。なれど、息継ぐようなもの。これ日々や。所尋ねるまで。身に一つの備え。横向いてはならん。尋ね掛けたらどうする事要らんよう、十のものなら十ながら、外へ散らんよう。三名取次、三名ながら並んで居ては取次やない。三名許したるは不都合無きよう、千切れ/\渡すは一人でよいもの。そこで三名許したる。三名の心は一人の心を働かしてくれにゃならん。
【説明】
(1) おやしきに勤め農事に励む者、また本部勤めの青年に月々一度ずつお話を聞かせ、信仰心を培いたいという催しをお許し願いたいという伺いである。 (2) おぢばへ多くの人を連れ戻っても、何かなしの日を送るのでは意味がない。幼少の時分から万事にわたり、日々親神の思召しを心に治めるよう。勤めてくれれば日々治まってくるのである。 (3) このやしきは鏡やしきである。その屋敷に勤めている者が、それにふさわしい通り方をしていたとは言えない。人に失策があっても、そのままにして注意もしてやらない。また一方、聞く気のない者は手に負えない。万事人間心ばかりで通り、ただ「天理王命」と口先で神名をとなえるばかりで、神意は少しも心に治まっていない。心から道の結構さがわかり、どういう理合いから人々がやしきへ引き寄せられているか、よくわかっていない。 (4) 何事も人は知らぬだろうと思うかもしれぬが、そんなことではない。鏡やしきは夜昼なく皆そのまま映るのである。これからは、よく注意して通ってもらいたい。このことぐらい大したことでない、というようなことではいけない。先に立つ者が、そんな考えで若い者を育てようにも育てられはしない。ほんの義理や体裁で事を済ます、というようでは困るのである。どのように治めるかは、各人の心次第である。どうでもこうでも、心をつくしてもらいたい。 (5) 蕾の花を切って花瓶に生けると、一まず見られる。けれど日が経てば枯れるから捨てねばならぬ。この道理を皆、承知しておいてほしい。見栄えより信仰の根を養うようにしてもらいたい。  毎月一度の心の磨き合い、話のし合いの会合には低い心で、かつ人のことを自分から先に立ってするというひのきしんの態度が望ましい。それが土台となるのである。放っておいても誰かするだろうと言っておっては、幾年経っても進展はない。実りはない。 (1) 建設中に教会が倒れるなどのふしがあっても、たんのうして、むしろ心を定めて通ることが大切。先には大きな楽しみの道がある。 (2) その他教会長を辞退したいという場合にも、よく考えることである。絶望的に見える事情にも、必ず解決の望みがある。 (3) そこで会長を辞職したいという場合には、代わる代わる足を運んで諭してやれ。三度までは説得に足を運んでやれ。 (4) そこまでしても、やめたいという場合には仕方がない、惜しいものだが。後任会長には丹精をつくしたものを運ぶ。 (5) 何かの都合で会長排斥運動などが起こったような場合、あくまでも元一日を考えて、天の理で治めることである。元々の理を捨てたなら、株たを捨てたようなことになる。 しかし、そのような場合、会長の方も人間心を混ぜ合わせていないか反省せねばならぬところがある。そして、あくまでも広く大きい心で育てることである。 (6) 会長辞職問題などが起こった時、上級教会などで心配するのも無理はない。しかし自分が病気になることを思えば大したことはない。 (7) このような問題に当たる時、何もない所から始まったのだ、ということを考えたら、必ず事情解決のご守護がいただける。また、どんなに見通しが暗くとも、必ず鮮やかなご守護がいただけるのだから、真実の心でかかれ。 \n\n (1) 若い者を育てるについては、義理や体裁で育てるようなことであっては何にもならない。まず育てるめんめんが、真実の心をつくしてこそ、しっかりと育ってくれるのであり、育つ方の心もひとつに固まってくるのである。何事につていも土台が大切である。真実つくして育てるという土台なしに、形式だけで育ててみても何にもならない。花の蕾を切って来て飾ったならば、少しの間は美しく眺めることができるが、日が経てば枯れてしまって捨ててしまわなければならない。これは今の場合すべてに当てはまる道理であって、この話を基として、仕込む場合の心構えの台としてもらいたい。  つまり青年を育てるに当たっても、目先の形を整えるような育て方ではなく、しっかりした性根を養うようにしてもらいたい。  毎月一度の反省のし合い、諭し合いする場合でも、低い心で人のためにつくすという気持ちが何より肝心である。誰かがしてくれるだろう、というような気持では何年経っても育つものではない。 (2) 今日まで相当の年限を通って来た。その間にはいろいろの中を通り、今日の道が組み上げられてきたと言える。このように、いろいろの道を通ったが、そのつどふしに当たっては、それ相応の道具が揃っていたのである。まさに、この道は世間のそしりの中から、真実を積み上げて今日になったのである。だから、いかなる場合にあっても、決して戸惑うということはない。今の若い者を育てるについても、この話を台として仕込んでやってもらいたい。
【摘要】
後継者については、先に教会の項で取り上げた。しかし、そこでは教会担任後継者の選任について述べた。ここでは教会子弟ならびに一般子弟の後継者養成の問題について考える。  子供や青年子女を道のよふぼくとして育てるには、親あるいは道の先輩たる者は、どういう心遣いや通り方、導き方をしなけれならぬか、この問題についておさしづに現れた神意はどうであるか。この点に関するおさしづを検討すると、次のような点が強調されている。 一、 道の信仰は幼少より仕込む必要があること。 (1) 相応の年になってからは世間のことに心煩わす、そうなってからは信仰の道につきにくい。子供の時分から道の信仰にしむけていけば順序がわかる。信仰の根を養うようにしてもらいたい。 二、 導き育てる者の心がけ。 (1) 育てる者は真実の心がなければ育たない。親が怒っては子供は育たない。 (2) よふぼくに育てるには年限がかかる。気長に導いてもらいたい。それには修理肥えが必要である。 (3) 幼年・若年の者を粗末に扱うことなく、幼少の者ほど、わが子より大切という心で育ててほしい。言葉一つにもよふぼくを育てる力があるから、注意して導いてもらいたい。 (4) この道は一代の道ではなく、末代の道である。理の親子も、肉親の親子も、親となり子となるいんねんによってなるものである。 (5) 心の磨き合いに当たっては、義理や体裁で治めることはしないでほしい。低い心で人のことを、自分から先に立って行うひのきしんの態度が根本となる。 三、 導かれる者の立場。 (1) とかく若い者は未熟であり、勝手な心遣いをすることがある。親があるので子がある。という理を考えてもらいたい。親の理を忘れては道とは言えない。若者が神の話を知らぬようではならぬから、しっかり仕込んでおくことが肝心である。 \n\n 青年会の創立に当たっては、婦人会の場合のように直接、その設立を促された明確なおさしづはない。しかし青年の育成に寄せられる親神の親心は、おさしづ全巻にわたり随所に拝することができる。 (1) 若い者は、ややもすると目先の問題のみに捉われた議論に走りがちであるが、どこまでも教理の根本を求め、心に治めることが肝要である。 (2) 若い者を育てるについては、形や体裁でしばるのではなく、真実の心をつくして育てなければならない。その真実に導かれ、若者は大きく育ってくるのである。 (3) 時代の波にのみ流されることなく、先輩の通って来た道すがらを台として導くことが肝心である。

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