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梅谷梅次郎俄かに眉毛にくさ出け腫れしに付身上願

さあ/\尋ねる事情/\、身上心得ん、どういう事である。尋ねる事情/\、いかなる事情もこれまでに諭したる。一時以て身上の障り、返いし/\事情々々どういう事なら、内々順々の理、大体十分か、一つ無くてはならん。つゞいてこちらへこちらへよう/\の理に一つ心得いかなる理、家内二人の障り、それ/\心得てくれ。これも放って置かれん。今日の日、古い理、中程の理、通る日々聞き分けて、さいごう順々よう運んでくれ。案じた分にゃどうもならん。遠く順序程無う帰る。帰るや否や尋ねて、事情こういうさしづを貰い、軽い理に思うてはならん。神一条、神の支配誰に遠慮気兼あってはならん。心に察して、順序運んでくれにゃならん。

押して、分教会の事でありますや、梅谷本部へ常詰に仕切って運ぶ事でありますや
さあ/\身上の障り、身上自由ならんようになってからどうもならん。障り事情心が治まれば鮮やか。数々の理に諭しある処に、中にどういう理も、こういう理も、これまで長いさしづに、その時/\話してある。これは話一つ、役員一つ後々皆々心に頼む/\と言えば、それ/\皆心が寄るという。これ一つ諭して置く。
【説明】
梅谷梅次郎。船場大教会初代会長梅谷四郎兵衛子息。 今日の日、古い理、中程の理と成人に応じて通って行く日々の在り方をききわけて成人の最後の順序をよく運んでくれ。(本部に常詰するようにとの意)教会の将来又子供の将来を心配していてはどうにもならない。という意味で、眉毛にくさ出来たのは、人間思案で将来のことを心配せず、理一條に立ちきれ。ということを指示されたのであろう。 (1) 建設中に教会が倒れるなどのふしがあっても、たんのうして、むしろ心を定めて通ることが大切。先には大きな楽しみの道がある。 (2) その他教会長を辞退したいという場合にも、よく考えることである。絶望的に見える事情にも、必ず解決の望みがある。 (3) そこで会長を辞職したいという場合には、代わる代わる足を運んで諭してやれ。三度までは説得に足を運んでやれ。 (4) そこまでしても、やめたいという場合には仕方がない、惜しいものだが。後任会長には丹精をつくしたものを運ぶ。 (5) 何かの都合で会長排斥運動などが起こったような場合、あくまでも元一日を考えて、天の理で治めることである。元々の理を捨てたなら、株たを捨てたようなことになる。 しかし、そのような場合、会長の方も人間心を混ぜ合わせていないか反省せねばならぬところがある。そして、あくまでも広く大きい心で育てることである。 (6) 会長辞職問題などが起こった時、上級教会などで心配するのも無理はない。しかし自分が病気になることを思えば大したことはない。 (7) このような問題に当たる時、何もない所から始まったのだ、ということを考えたら、必ず事情解決のご守護がいただける。また、どんなに見通しが暗くとも、必ず鮮やかなご守護がいただけるのだから、真実の心でかかれ。 \n\n (1) 梅谷梅次郎氏 船場大教会二代会長 初代会長・梅谷四郎兵衛氏は、おぢばのご用と教会のご用の二つを、共に全うするために非常な苦労をした。特に教会設立前後は、涙ぐましいほどの心遣いをしている。 さて時が移って二代会長に会長を譲り、おぢばのご用に専念するようになった前後のおさしづである。 (2) 教会は神一条で治めるところであり、教会を治めるのは親神である。それで親神の思召し通りに治めるために、人間思案の上からする遠慮気兼ねがあってはならない。この親神の思召しを察して、これからの段取りをすすめてくれねばならない。 (3) 梅次郎に任せておくというのは、不安があるかもしれない。しかしながら、それはよく言い聞かせ、芯に肉を巻く役員によく頼んでおけ阿ば、皆の心も寄り心配は不要である。
【摘要】
「くさ」については丁度症状が示すように、むしゃくしゃしている心の状態、即ちいんねんに心ひかれて、理一條に立ち切れず、不足勝ちでいるところを、あざやかに理の上から思案して、どこまでも理が立つようにつっぱって行けということを指示されていられる。 註 身上さとしは、親神天理王命の十全の守護の理が根底となっていることは、今更申すまでもないことである。”二つ一つが天の理”というお言葉は、本教的な物の考え方(理論)を最も端的に表現するものであろう。”二つが一つになる”なり方が、論理的にいって、非常に問題があるところであるが、本教では、”談じ合い”をもって、”順序の理”を経て、”一つになる”のである。この理論に基づいて、下図に示すように十全の対応の守護の理を理解するならば、皮膚についてのさとしが、それに対応する”つっぱり”の理合いによってなされている意味をよく納得することが出来よう。 \n\n 名称の理は末代と言われる。しかし、その芯となるべき会長は、旬を見て担任変更せねばならない。  現会長が世間の人の気もつかない間に、いつの間にか新会長と変わり、しかもそのふしから一層盛大な教会へとご守護いただくのが理想である。とは言っても、その時期は非常に難しい。長い間経験を積んだ会長に比べると新しく会長となるべき人は、いかにも、ひ弱に見えるから、もう少しあとでと考えている間に旬を失うことになりやすい。  そこで、この時期をめぐる問題について、おさしづをひもといてみた。  その時期は、 ①現会長の存命中に譲れば本当に楽しみであり、現会長の元気な間に譲るのが天の理。 ②具体的には皆がもうよいという時期。まだまだ早いというようなら時期尚早。 ③旬をはずしたら、天よりの綱をはずすようなもの。  その場合にも、上級教会に七分、自分の教会に三分、というような勤め方をして、やがて旬を見て担任の変更をする、というような道がある。担任を変更する場合、 ①教会長となる人は、何もかもできる人でなくともよい。 ②役員にあとを頼むと言えば、皆の心が寄る。 ③理は変わらないのだから、新会長を中心に皆が心を結ぶことが大切。  人間の情として担任変更をすれば、今まで非常に忙しかったのが急に閑になるから、寂しい思いをするのではないか、という心配がある。  しかし、いつまでも「俺が、俺が」と言っていても、病気になってしまっては仕方がない。後任に教会を譲って、楽という道を通れ、とやさしくねぎらわれている。  そして相談柱としての道を通れ、と言われるのである。

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