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郡山分教会長平野楢蔵三箇月程以前より左の耳鳴りて聞こえませんに付願

さあ/\まあ分教会と言えば、幾分教会も同じ一つの順序。ぢばという。多分の分教会や。信徒一つ元から信徒の理を筆取りて寄せ/\、一つ内も外も隔て無い理。修理肥はどういうもの。世界から修理肥を出すか。修理肥を出すは元にある。修理肥を出す。花が咲く実がのるは、何処からのるか。皆先にのるのや。元は修理肥何人ある。日々治め方一つの理は肥である。一つの理働きする満足する。楽しむ。これより楽しみは無い。ぢば、やしき明らか。やしき修理肥違う。そも/\修理肥違い流る。世界にこの事順序綺麗に書き出す。通るだけ元という。綺麗に見えやせん。この理聞き分け。たゞ一つ皆一手を神の望み。何処でどう彼処でどう、皆順序の理で神の働き知らんか。これ分かれば、身上一つ障りすっきり無いものや。そこえ皆宜し頼むと言う。これより真実は無い。上も下も中も三つある。区域々々だけ心を働き、元に区域、末に区域散乱、これは破れ物に物入れたようなもの。あちらもこちら持って歩けば、十の物ありても何処へ落したやら分からん。心を繋ぎ合い、破れた容物に入れたようのもの。物落して知らん。軽々一つ理。これを違う物を隔てる理は破れた物も同じ事、何処から種を持って出るやら分からん。何名何人ある。この順序隔て無く、よう隔てるは破れ容物。これ一つ治まったら、悩みはすっきり無いで。

押して、本部より一名出張頂いて御諭し貰いまして宜しきや願
さあ/\尋ねる処、一人事情話し掛けたる。前々一つ心に持って、本部から行く事は要らん。これだけこういう事である。聞き取って心得、ほんにそうじゃなあ。第一隔てるというは破れの元という。
【説明】
平野楢蔵、郡山大教会初代会長。 分教会といえば、どんな分教会も、ぢばという元からできたもので、ぢばと分教会が夫々の区域を作っていてはいけない。一手一つになることが親神ののぞみであるという意味で、左の耳鳴りはぢばの理をよく聞き分けよということを指示されたのであろう。 \n\n (1) どの分教会も、ぢば一つの理から生まれたものなのである。 (2) 修理肥を出すのはぢばであり、花が咲き実がのるのは、すべて国々所々の分教会である。 (3) 皆が一手一つになることだけが神の望みで、ぢば、分教会という順序の理はあっても、すべてを包括する神の働きを知らないようなことではいけない。 (4) それをそれぞれの区域ばかりにとらわれて、ぢばや教会に区域が散乱しているようでは、敗れた袋に物を入れたようなことになる。 (5) 隔てる心、縄張りの根性は敗れの元であることを、本当にそうだと聞き取って、今後は心得てほしい。 \n\n (1~2)分教会と言えば、幾つあっても皆同じ一つのぢばから許されたものである。部内の教会や信者やというても、その修理肥は世界からするのでない。皆元であるぢばからするのである。花が咲き実がのるのは皆枝先にのるのであるが、それは元なるぢばからの修理肥があるからである。部内を日々に治めるのは肥をやるようなものである。 (3)唯一つ皆一手一つが神の望みである。 (4~5)順序は上・中・下と本部と直属教会と部内教会と三つある。その上・中・下に区域をつくり隔てをするのは、破れた容物に物を入れたようなもので、いつの間にやらみんな落してしまうことになる。隔てなく心をつなぎ合うことが肝心である。この順序が治まったら悩みはすっきりなくなる。 (6)第一順序に隔てをつくるということは破れの元になる。
【摘要】
耳については、互いによく談じ合え。聞きにくいことも前生いんねんとたんのうせよ。神意、ぢばの理を聞き分けよ。理を知らせてやれ。いらんことを聞き、心をにごすな。などというおさとしがある。特に注目すべきことは、『理をききわけよ』と『理を知らしてやれ』という消極と積極の二つがあることで、その時の事情その人のいんねんを明らかにしなければ、適切なおさとしは出来ないことが、これによって明らかに解るであろう。皆の者が一手一つに陽気ぐらしが出来るように、耳を使わせて頂くことが、大切である。  \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。 \n\n (1) 建設中に教会が倒れるなどのふしがあっても、たんのうして、むしろ心を定めて通ることが大切。先には大きな楽しみの道がある。 (2) その他教会長を辞退したいという場合にも、よく考えることである。絶望的に見える事情にも、必ず解決の望みがある。 (3) そこで会長を辞職したいという場合には、代わる代わる足を運んで諭してやれ。三度までは説得に足を運んでやれ。 (4) そこまでしても、やめたいという場合には仕方がない、惜しいものだが。後任会長には丹精をつくしたものを運ぶ。 (5) 何かの都合で会長排斥運動などが起こったような場合、あくまでも元一日を考えて、天の理で治めることである。元々の理を捨てたなら、株たを捨てたようなことになる。 しかし、そのような場合、会長の方も人間心を混ぜ合わせていないか反省せねばならぬところがある。そして、あくまでも広く大きい心で育てることである。 (6) 会長辞職問題などが起こった時、上級教会などで心配するのも無理はない。しかし自分が病気になることを思えば大したことはない。 (7) このような問題に当たる時、何もない所から始まったのだ、ということを考えたら、必ず事情解決のご守護がいただける。また、どんなに見通しが暗くとも、必ず鮮やかなご守護がいただけるのだから、真実の心でかかれ。

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