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春野喜市別宅致し度きに付可否の願

さあ/\尋ねる事情/\、いずれもだん/\ある。道理いずれもだん/\ある。一軒という内という、だん/\何人なりと住むは一つ理、すれば心という理という。日々のものである/\。一時尋ねる処、どうでもこうでも、又一つ順なる/\。一寸暫くこれは一つ事情、皆んなこれまで一時仕切りて/\は未だ/\事情、よう聞き分け。万事の処皆んな心以て日を掛けたら、一つ事情尋ね掛けたら、事情行く行く二つ理。一つ又諭す。心日々の事、成らん事無理にどうと言わん。又日々という、内々十分なると言うて暮らせばよい。人間という、先を見れば長い、後見て楽しみ暮らせば、二年三年は短い。三年千日というは長い。なれど、後三年、経った事見れば短い。心というは返やし/\諭す。日々の事これ休まる日無けにゃならん。こうしたらと言う、何でもと言えばそれは心委せ置く。なれど、又事情急ぐ事要らん/\。

子を与えて下さるようでありますが身上の処伺
さあ/\身上々々、尋ねる処立てば日が経つ、立てば日が経つ。楽しめば楽しみある。この一つ話立てば立つ。楽しみの日がある。諭し置こう。
【説明】
(1~3)一軒の家、家庭を形づくって集うには、それだけの理がある。すなわち親神の計らいをもって寄せていただいているのである。したがって、それぞれがその上に立っての心の馳せ方をするのが大切で、皆日々先案じせず、急がず、結構という喜びの心をもって暮らすのが大切。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。  今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。

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