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深谷源次郎目の障り願

さあ/\尋ねる事情/\、身上に心得んという、順序いずれ/\の事情。前々諭したる。年限は長きもの、なれど、つい/\経つもの、その際心に掛かり、又先々も心に掛かり、日々であったやろう。諭に一つの理がある。追々という理がある。一日の日を以て身上尋ねる。いつにいつとは諭せんが心に理はあろう。月々の処に譬えて計れ。あちらこちら来てるかと思えば、帰らんならん。内々外々結び合い、楽しみ合い、一月二月三月、それ半季という。とんだ理ではないで。よう聞き分け。それ/\先々へも、身上の事情より尋ねたらこういう諭の理があった、と明らかな理を諭し、満足を与えてくれ。人に一つの満足を与えるよう。あちらに三日又三日、半季々々、又、七分三分という。七分三分は、どういう理と思うやろう。今まで長らえた所に三分、楽しんだ所に七分やで。さあ/\この理、取次もよう諭してくれにゃならんで。
【説明】
深谷源次郎、河原町大教会初代会長。 今まで長らえた処、即ち河原町分教会に三分、今まで楽しんだ処、即ちおぢばに七分というようにつとめよという意味で、目の障りは、河原町分教会の事情をいろいろと見て案じずに、早くまかして、本部の上に丹精せよと指示されたのであろう。 \n\n (1) 教会の方に三日勤めて、おぢばへ帰って来て、また三日教会で勤める。このようにしている間に、半年位はすぐ立つ。七分三分の勤めをするのだ。「おぢばに七分、教会に三分」の勤めをするのだ。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。 \n\n 名称の理は末代と言われる。しかし、その芯となるべき会長は、旬を見て担任変更せねばならない。  現会長が世間の人の気もつかない間に、いつの間にか新会長と変わり、しかもそのふしから一層盛大な教会へとご守護いただくのが理想である。とは言っても、その時期は非常に難しい。長い間経験を積んだ会長に比べると新しく会長となるべき人は、いかにも、ひ弱に見えるから、もう少しあとでと考えている間に旬を失うことになりやすい。  そこで、この時期をめぐる問題について、おさしづをひもといてみた。  その時期は、 ①現会長の存命中に譲れば本当に楽しみであり、現会長の元気な間に譲るのが天の理。 ②具体的には皆がもうよいという時期。まだまだ早いというようなら時期尚早。 ③旬をはずしたら、天よりの綱をはずすようなもの。  その場合にも、上級教会に七分、自分の教会に三分、というような勤め方をして、やがて旬を見て担任の変更をする、というような道がある。担任を変更する場合、 ①教会長となる人は、何もかもできる人でなくともよい。 ②役員にあとを頼むと言えば、皆の心が寄る。 ③理は変わらないのだから、新会長を中心に皆が心を結ぶことが大切。  人間の情として担任変更をすれば、今まで非常に忙しかったのが急に閑になるから、寂しい思いをするのではないか、という心配がある。  しかし、いつまでも「俺が、俺が」と言っていても、病気になってしまっては仕方がない。後任に教会を譲って、楽という道を通れ、とやさしくねぎらわれている。  そして相談柱としての道を通れ、と言われるのである。

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