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梅谷四郎兵衞身上おさしづよりすっきり委せて了えとの仰せは、会長の名義も副会長梅次郎に委して宜しきや願

さあ/\尋ねる事情/\、万事の事はいかな事も尋ねにゃ分かろまい。このくらいならというような道ではどうもならん。よう聞き分け。身上に一つの事情あれば、どんな事も及ぶまでのものやろ。どうしょうこうしょうと思うても、身上に心得ん事情ありては出る所へも出られんやろう。皆の者に心配掛けるより仕様無い。よう聞き分け。所を立ち越え近く/\まで、一つの順序に追うて来たる処、しっかり聞き分け。もうこれ所を立ち越え一つ治まって順序の処、一つの名前を持って居れば万事掛かる。たった一つの理より治めば、何も構わいでもよいもの。これ一つ第一難しい事は無い。たゞ一つの理から出たものなら、一つの道の心に成れば、何も言う事無い。人々の心という理ありてはどうもならん。今一時尋ねる事情楽という理を知らんか。いつまでも俺が/\と言うても、身上に事情ありては楽しみはあろうまい。身の治まり道という、理という、一つの相談柱には違いない。そこえ/\の事なら、それに間に合わすが楽しみ。あちらこちら一つの理を集め、あちらに事情あればそうか、それは御苦労やなあ、と言うて通るが、楽々の道であろう。それで内も外も楽しみであろう。何でも彼でもと言うては、心の休まる間があろうまい。この理ほんに成程と聞き分けて、一つの心を持ってくれ。この席皆んなそれ/\寄り合うて居る。道の理はたゞ一つ。人間同志の理もあろうまい。ようこれ聞き分けてくれ。今一時の処やない。前々互い/\というは、心に罪という。罪はすっきり廃して了わねばならん。取って了わにゃなろうまい。罪というは、道の理とは言えん。成らん事どうせいとは言うやない。元々寄り合うた理を見よ。分からず/\ではあろうまい。もう一つの心も万人の心も、ぢばに一つの理があるのや。同じ兄弟の中に、合うの合わんのと言うようでは、道を捨てゝほかして了うたも同じ事やで。

押して、前に梅谷四郎兵衞身上のおさしづの仰せに修理と仰せ下されし理は、本部内らの事でありますや、又部下先々の事でありますや
さあ/\尋ねる事情/\、前々に順序諭して、一会と言うてある。それ/\談じ、どうがよかろ、こうがよかろう、一つの理を以て集めたる。難しき事は無い。同じ兄弟、内も外も隔て無きという。万事々々これまで/\、年限から計れば三十年以来の中、二つにも三つにも仕切りて諭さにゃ分からん。どれだけ賢いと言うて成るものやない。どれだけ弁者と言うて、成るものやない。あちらへこちらへ逃げ歩き逃げ歩き、たゞ心一つの理で通りて道。年限経てば、あちらの理も忘れ、こちらの理も忘れ、たゞ表だけの理になる。苦情が栄えて、道が栄えるか。よう聞き分け。苦情ありて道と言うか。それ二つ三つに仕切りてあれど、古き道忘れて了う。一つの理が増えて、三つのものが四つにもなる。人間心の道になりて了う。まあ初めの処はどうでもこうでも、三才児の心、年限のうちには、艱難苦労さしたる。この理分からいでは、人間心の道というより外は無い。この道というは、人間の知りたる道やない。ほんのほのかの理より成り立ったもの。よう/\の道である。よう心に思やん求めてくれにゃならん、治めてくれにゃならん。

一先ず御引きになりて火鉢の前にて御話
さあ/\もう一言々々、一寸一つ書き取らにゃならん。今日一日の日を以て、談示の理を尋ねて一つの理、一点を打った理から諭そう。こうして居ればさしづの間は皆一つの心。さしづ一つの理であろう。ほんにこうせんにゃならんという処から、膝を並べて尋ねるのやろう。どうでもこうでも人間心の理は用いる事要らん。要らん筈や。人間心の理で作りた道やないから、人間心はすっきり要らん。それそれ合うた者同志の心を運んで、急いては治まらん。さしづ一条という理から持って居たら、一つの心に集まる。集まるから治まる。一戸のうちでもそも/\で苦情ありては、繁栄とは言えん。まして元々世上始めたやしきの中なら言うまでのものやろう。そこえ/\一つ集めて一つの理。どれだけその場抑えて羽振り切っても、治まりそうな事は無い。あんな者ほかして了わんならんような者でも、だん/\通りて尽した理は、ほかす事出来ん。万事諭して理を寄せる。

勝手という理は、この道には一つも要らん。同じ兄弟同志なら兄親と言う。ぢば一つの中に、互い/\苦情ありては世界の聞こえはどうなるか。もう古い者は、ほかして了うたらと言うようではならん。西も東も分からん時から、始め掛けたる理が第一。一掴みに言うてはいかん。これから古き道復習えてくれ。いかな事も分かるであろう。これ一つが第一である程に。内々は仲好く、いつ/\も変わらんなあというが第一の理。世界から成程と言うて連れ帰るよう、これを取り締まりてくれるよう。さしづの理を以てすれば、苦情は無きもの。あちらがどうこちらがどう、この理見て居るに居られん。外の道と内の道とはころりと違う。内の道が外へ分かりたら、鮮やかなものである程に。
【説明】
(1) どうしようか、こうしようかと思っても、病気となっては行かねばならない所へも行けない。皆に心配をかけるだけではないか。 (2) 会長の名前があるだけで、万事責任がかかってくる。この問題さえ解決してしまえば、何もかまうことはいらない。何も難しいことはない。 (3) いつまでも、俺が会長でなければ治まらないのだと言っていても、病気となってしまっては楽しみがないではないか。 (4) 何でもかでも自分がせねばならぬのでは、心の休まる時がないであろう。なるほどその通りだと聞き分けて、会長を譲る心を定めてくれ。
【摘要】
名称の理は末代と言われる。しかし、その芯となるべき会長は、旬を見て担任変更せねばならない。  現会長が世間の人の気もつかない間に、いつの間にか新会長と変わり、しかもそのふしから一層盛大な教会へとご守護いただくのが理想である。とは言っても、その時期は非常に難しい。長い間経験を積んだ会長に比べると新しく会長となるべき人は、いかにも、ひ弱に見えるから、もう少しあとでと考えている間に旬を失うことになりやすい。  そこで、この時期をめぐる問題について、おさしづをひもといてみた。  その時期は、 ①現会長の存命中に譲れば本当に楽しみであり、現会長の元気な間に譲るのが天の理。 ②具体的には皆がもうよいという時期。まだまだ早いというようなら時期尚早。 ③旬をはずしたら、天よりの綱をはずすようなもの。  その場合にも、上級教会に七分、自分の教会に三分、というような勤め方をして、やがて旬を見て担任の変更をする、というような道がある。担任を変更する場合、 ①教会長となる人は、何もかもできる人でなくともよい。 ②役員にあとを頼むと言えば、皆の心が寄る。 ③理は変わらないのだから、新会長を中心に皆が心を結ぶことが大切。  人間の情として担任変更をすれば、今まで非常に忙しかったのが急に閑になるから、寂しい思いをするのではないか、という心配がある。  しかし、いつまでも「俺が、俺が」と言っていても、病気になってしまっては仕方がない。後任に教会を譲って、楽という道を通れ、とやさしくねぎらわれている。  そして相談柱としての道を通れ、と言われるのである。

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