おさしず検索


深谷源次郎前身上よりおさしづ頂きし処、それには七分三分という事もあり、それ/\談示の上本部へ七分勤め分教会へは三分勤めて、事務の処は副会長深谷徳次郎なり役員へ皆委せる事にして本部へ勤める事に相成り、それに付分教会の一同心得まで願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\前々の事情、一つの理、一時一つさあ第一事情は身上、身上に掛かりて一つ一時どうであろう、こうであろう。皆んな一つ心を持ち、理は一つ治めた心、だん/\それ/\中に治まりというは、もう容易ならん理。心という、定めたというは、将来一つ一日の日将来に治め、何処から何処まで綺麗な道付けるよう。さあ七分三分七分の間三分、三分もなあというは、この理聞き分け。悪い理は三分寄らんで。善き理に三分。よく聞き分け。皆々心の理、一日の日、心という理、何ぼ遠く所でも、皆決まりがある。よう聞き分け。明らかでも同じ理、それ安楽という理を知らそ/\。よう聞き分け。さあ/\何でも彼でも、仲好くは一つ理、仲好く一つ理は世界という。仲好くはこれ誠。誠無けねば治まらん。治まれば皆勇む。勇めば神も喜ぶ、という理を諭し置こう。ようく聞き分け。

押して、名義だけはこれまで通りにしてやらして貰います事でありますや、尚名義も副会長徳次郎へ譲りたものでありますや願
さあ/\尋ね返やす/\。事情七分三分という。未だ三分がある。そこで副会長という。もう三分で会長である。もう一度いずれ/\のさしづ。さあ遠からず/\。さあ/\勇む心によって、何時とも分からんで。ようく聞き分け。
【説明】
(1) 深谷源次郎(本部員・河原町大教会初代会長)は明治十四年入信。明治三十二年三月二十五日の目の障り願いに当たり「今まで長らえたところに三分、楽しんだ所に七分」とさしづをいただいた。同年八月八日の身上願いに七分三分のことを尋ねている。同年十月、すなわちこのおさしづにより重ねて本部へ七分、河原町分教会へ三分勤めることを願い、かつ分教会は養子にして実弟徳治郎氏(のちの二代会長)に任せることについて伺った。 (2) 元一日の日の心を定め、将来末代変わらぬ心とし、きれいな道をつくるよう。本部へ七分、河原町大教会へ三分勤めるというが、七分おぢばに勤めながら三分の河原町のことが気になり、、更に徳治郎のことが気にかかるというように、聞き分けが悪いと、分教会の方のご守護もいただかれないぞ。よう聞き分けておぢばにしっかり勤めるならば、分教会の方もよく治まる。皆々心を元一日の日にかえし通れば、どんな遠方の地であっても教会のきまりがついていくから、よく聞き分けてくれ。深谷源次郎氏夫妻は明治三十一年一月二十七日のおさしづによりおぢばへ引っ越しは許された。十月十九日夫妻の移転祝いが催された(「初代会長伝」河原町大教会刊 参照)。
【摘要】
親神の深い思惑から身上・事情にお手入れをいただき、道に引き寄せられ、更に一段の成人を望まれると、旬がくるや待ったなしに道一条にならざるを得ない。この道一条の具体的な形として、教会入り込み(住み込み)ということになる。  飯降伊蔵様はじめ、教祖のおそばにお仕えなされた道の先輩先生方は、はじめ道に引き寄せられて遠方から通われるうちに、だんだん道のご用も繁くなり、徐々におやしき入り込みとなられた方が多い。ここには、」その中のごく一部のおさしづを採録したに過ぎないことをお断りしておきたい。  さて伊蔵様は、元治元年入信以来おやしきへ通われた。 「丸九年という/\。年々おお晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来るものもなかった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\髄いて来てくれたと喜んだ日ある。」(明治34.5.25)  飯降伊蔵様は教祖から親子揃うて早くおやしきへ帰ってくるよう、たびたびお言葉をいただかれたにもかかわらず、道のどん底時代のこと、秀司先生ご夫妻への気がねもあり、親子もろとも移り住むことは教祖にご心配をかけることになるとて逡巡せられたという。しかし明治十四年伊蔵様の家族の身上障り(伊蔵様の腰痛、二女まさえ姉の眼、政甚氏のにわかに口がきけなくなった障り)によって、いよいよ心定めせられ、伊蔵様ご自身が櫟本を引き払っておやしきへ伏せ込まれたのは明治十五年三月であった。伊蔵様五十歳、おさと様四十九歳の時である。かくのごとく伊蔵様は入信以来二十年間櫟本から通われ、その後おやしきへ伏せ込まれることになった。本稿の「教会入り込み」事情の中には、伊蔵様のおやしき伏せ込みについては触れていない。  ところで、教会入り込み(住み込み)事情に関しては、 一、 おやしき入り込み 二、 地方教会入り込み の二つに分けることが出来る。また、教会へ入り込みをする立場の者と、それを迎える側の立場とある。  ここで前掲おさしづによって要約すると、次のことが言えると思う。教会入り込みにあたっては、 (1) 一つの理(親神様の思召)を心に治めること (2) 元一日を忘れず将来末代道のご用に勤めさせて頂くという決心を固めること (3) 住み込み人は理を積み重ねなければ、教会に置いてもらいたいと思っても置いてもらえないこと (4) おやしきに入り込ませていただく者は、どれほどの理がある者でも、ぢばの理が心に治まらねば駄目になること (5) 入り込み人を迎える立場の者は、一つの理(親神の思召)を心に治めてそだててもらいたいということ このような点を心して通るよう仰せられているよう拝察する。これは道一条を通る者の心すべき点、すなわちいんねんの自覚とその洗いかえ、まただめの教えたるゆえんを、よく心に治めるという点に帰するものであろう。(金子圭助)

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