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高知分教会長島村菊太郎部内巡教中、右の足怪我致せしに付願

さあ/\だん/\尋ねる/\。さあ国にだん/\一つ/\の理をいかな理、一つ一つ日々日柄々々、追々事情、事情の者/\。一名の話やないで。一名の話やない程に。よく事情一つ聞き分け。初めというは、難しいてならなんだ/\。中頃勇んだ中定まり、中に又大変困難一つどうもならん道であろう。踏み止め留まり、順序こんな事でなあ、何たるという処越したる。危なき処も越してある。難しい処も越してある。又、国々万事治め方廻る際、こういう事と又思たらころっと違う。そら思うやない。何にも間違いは無い。よく聞き分けにゃならん。難しい処一つ治まる日柄、危なき処越さにゃ分からん。通り抜けにゃならん。こんな事と思う事、幾度あった。踏み留まり/\、よう/\固まり、皆よく聞き分け。一つの台を拵える。容易やない。十分台拵え。あちらにも大木を拵え、こちらにも大き木治まり台である。あちら芽が吹き、こちら芽差しだん/\の芽である。一時の処からよう一つ心治めてくれ。大きいな台を拵えるで。楽しみは、いつまでの楽しみ。身の障り尋ねる。尋ねにゃ分からん。この理一つ陰からすっきり映りある。よう聞き分け。諭し事情一時でなろまい。追々年々治まり、年々楽しみ、皆一つ理が治まり次第、追々伝え諭すによって、何か順序これまで難儀不自由の道諭し置く。成程道は天然自然の理である。天然自然の理で治めるなら、どれだけ危ない所でも怖わい所でも、神が手を引いて連れて通る。天の綱を持って行くも同じ事。これ一つ諭し置く。後々諭す理もある。年々あちら治まりこちら治まり世上治まり、一つ/\皆心にある/\。まあ/\楽しめ/\。いつとも言わんが、尋ね出る日もある。心に楽しみという。
【説明】
島村菊太郎、高知大教会初代会長。 これまで難儀不自由の道を通ったのも、道すがらであったとさとしおく。成程とたんのうして通る道すがら、天然自然の理である。天然自然の理で治めるなら、どれだけあぶない処でもこわい処でも親神様が手を引いて連れて通る。天の綱を持って行くのも同じ事である。年々あちら治まりこちら治まり、世間も治まるようになるが、それはみな心次第である。まあまあ楽しめ楽しめ。何時とも云わないが、又尋ね出る日もあろう。常に心に楽しみを待って通るように、という意味で、右の足怪我は、どんな道すがらも楽しんで通れということを指示されたのであろう。 \n\n (1) 創立以来、昇天の勢いを続けていた高知分教会(現高知大教会)も、部下教会長の運営上の誤りから大借金事情にまきこまれたことがある。高陽事情と呼ばれる。それは県下の金融界にさえ影響を与えたほどの大事件で、会長は、この事件の治め方に血尿が出るほどの苦労をし、真実の役員は、寿命を縮めるほどの思いで会長をたすけた。このおさしづの背後にはそのようなことがある(「教会史資料(一)」参照)。 (2~3)難しいところも危ないところも、越さねばわからないし通りぬけねばならない。なぜ、こんなことをせねばならぬかと思ったことも幾度もあったことであろう。しかし、それがすべて万人をたすけ上げる台となるのだ。あちらにもこちらにも、それができているではないか。 (4~5)これまで難儀不自由の道を通ったのも、道すがらであったと諭しておく。なるほどとたんのうして通る道すがらは、天然自然の理である。天然自然の理で治めるなら、どれだけ危ない所でもこわい所でも、天の鋼を持って行くのと同じことである。年々あちら治まりこちら治まり、世間も治まるようになるが、それは皆心次第である。まあまあ楽しめ楽しめ。
【摘要】
足は歩くものである。従って、足に関するおさとしが、信仰の道を、即ち神一條、たすけ一條の道を踏みはずさずに、勇んで通ることに関したものであることは直ちにうなずけることでもあろう。而して勇んで通るにはいんねんの自覚が大切である。いんねんを自覚して通る心は、たんのうの心ということが出来る。たんのうの心に先案じがあってはならぬ。又たんのうは単に自分がたんのうするだけでなしに、相手にもたんのうしてもらうようになってこそ、本当のたんのうということが出来る。先案じせず、日々をたんのうして、理をふみはずすことなく、一條に信仰の道を歩くところに、足の病をおたすけいただく根本があろう。理の運びを速やかにする時、速やかに足の病をおたすけいただく御守護がある。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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