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西松太郎及び家内身上願

さあ/\尋ねる事情/\、身上という一つ事情、内々さあ/\内々いかなる事情であろう/\。どうも一時、どう思案をしたらと思う心は今まで/\。何かの事情も聞いても居る、見ても居る。どんな事情の中も通り来たるは道すがら。内々一つ事情どうもなあ、日々であろう。何が違う、何が間違うと思うは要らん。長らえて伝え来たる道である。楽しむは、これからである。楽しんでくれ/\。よう/\やれやれ先ず/\の日は、どうなりこうなり定まりて道と言う、理と言う。天の理である。治まったら、いかなるも心に安心して一つ事情、又内々もこれではこうと思う。年限の間通り来たる。案じる事要らん。道という、道はなか/\の道である。天より一つ事情受け取りてあるから、返やす理はこれからである程に。楽しんでくれるよう/\。
【説明】
(1) 西松太郎氏 中紀大教会初代会長。 西氏は当時、分教会(南海)の上を思う余り、部内教会の負債を分教会が引き受けることについて、反対であったと言われている(「南海大教会史・第二巻」参照)。 (2) 今までは、どう思案したらいいかという心で通ってきているが、どんな事情の中も通ってくるのが道すがらである。教会内の事情が解決しにくい毎日ではあろう。しかし、何が間違っていると案じることはいらない。この道は長く伝えられてきたものである。これからの道を楽しんでくれるように。 (3) 年限の間通ってきたのであるから、案じることはいらない。なかなか大変なのが道である。しかし、そのことは神が受け取っている。天から返すのは、これからである。楽しんで通るように。
【摘要】
教会史を読ませていただくと、ほとんどの大きな教会は一度二度と、厳しい財政的な窮状を通りぬけて来ている。教会が財政的に困難な事情に面して、直接その問題についておさしづを仰ぐということは、非常に少ないようである。しかし、そのようなのっぴきならぬ苦しい事情の最中にあって、身上を通して会長、あるいはその家族、また役員などにおさしづを頂いているのが、かなりある。すなわち、そのおさしづに基づいて理に徹しきるところから、当面する教会の財政上困難な事情も解決を見、また身上のご守護もいただくという場合が多い。本項では、既に取り上げられているおさしづを除いて、いくつか教会史に照らして取り上げさせていただいた。  それらのおさしづの内容を要約させていただくと、 (1) 先案じせずにたんのうして通らせてもらう (2) たすけ合いの心で一手一つに心をつなぐ (3) 大きな心になって将来を楽しんで通る (4) どうなってもという一つの心(踏ん張る心)を治める (5) 運んだ理のこうのうは末代の理であると悟る このようなことが大切であると教えられている。

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