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桝井政治郎小人ナヲヱ四才身上願(三日前より食事すっきり止まり喉苦しみに付)

さあ/\尋ねる事情/\、小児身上いかなる事情であろうと尋ねる。身上の処一寸一時どうこうとは無いで。余程大層なれど、一時どうではない。何かの処内々の処安心ならん。小児又一つ多くの中どうでもこうでも多くの中、どんな者もそれ/\いかなる者も、それ/\一つ諭し置こう。順序というものは、日々にある。順序の道を定め。内々事情もあるなれど/\、一つ身上の悩む大難小難、小難大難一時に案じる。小児身上又大難事情、理というものは幾重にもあるで。大難小難幾重にも分かりてある。内々の事情、一つよく聞き分け。

押して、中河分教会治め向きに付願
さあ/\尋ねる事情/\尋ねる。さあ/\今一時の処、身上という順序を尋ねる一つの際、先々の処万事の処、心掛かりの無いようにして、扱いは、何時なりと許そ。そこで、安心と見て、何時なりと。さあ/\あちらもこちらも道というもの、これ一つの心得のために、理を諭し置こう。
【説明】
桝井政治郎、本部員。 内々(家内)事情もあるけれども、順序というものが日々の生活になければならぬから、順序の道をさだめよ。身上の悩みは大難を小難と御守護下さっているのを大難と思いあやまるから、今一時の心配するのであるが、心配には及ばぬ。という意味で、喉の苦しみは、理をよくおさめよ。ということを指示されたのであろう。 \n\n (1~3)息女の身上につき伺われたところ、家庭内の治まりをお諭しいただいたおさしづと拝される。次のおさしづと関連。
【摘要】
咽喉は、口で咀嚼したものをのみこむところである。咽喉に関する身上さとしが、理をよく飲み込む(治める)こと特にたんのうの理をのみこむことを強調していられる点は、誠に妙味深い者があると申すべきであろう。 \n\n  おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。  今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。

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