おさしず検索


深谷徳次郎小人景三四才身上事情に付願

さあ/\尋ねる事情/\、どうも小人事情心得ん/\、事情やなあ、いかな事であろ思うから、尋ねる。どうも細く声どういう事であろうと思う。何よの事もひっそり/\あれは分かり、ざわ/\では分かろまい。何よひいそりこれまで順序諭したる。今の処何か大層大儀の際、何かの処、この一つ理まあ先々の処出すに出せん。言うに言えん。そこで細いと言う。半ばで構わん。立ち並んで前々諭した。楽しました。一時にどうと出けん。なれど、続いて切れんよう、続いて行くよう治めにゃならん。急えて行くものやない。なれど、急かずに居ては同じ事。いかな事も、ひいそ/\にすれば、やれ/\と言う。身上案じる事要らん/\。心の理が治まったら、自由と言う。

押して前々おさしづ上より、運び方部内三箇所の事申し上げ願
さあ/\何よ尋ねる。尋ねにゃならん。何よ胸に持って居てはならん。尋ねたら順序諭したる。半ばというは、どちらから取り掛かろやろ。地所という理の治まったるというは、おのずと一つ聞かした理から、万事治まったる。何よ楽しみ無しに、何働けようか。働く者あるか。皆楽しみやなあという処から集まって、一時にどうしょうこうしょう出けんなれど、精神湧いて来る。これだけ聞いたら分かるやろ。事情治まったる処聞き分け。楽しみ/\、楽しみの話さにゃ何よ働く事出けん。よう聞き分け。万事楽しまして、これ何よ治まる。一時にどうせえこうせえと言うた処が行くものやない。よう聞き分け。中に楽しみ/\から働く。働くから成り立つ。皆義理や役で働けば、皆、後の理が無い。これだけ諭し置こう。
【説明】
(1) 景三再び身上となり、咳劇しく大いに苦しみ、声も枯れて出ないようになる。 河原町では同年一月十日、移転新築普請が打ち出され普請にかかっていた(「河原町大教会史・上巻」参照)。 (2~3)今のところ普請があるからと先に諭した分離事情のことは、普請ができてからと定めただけであるが、それをそのままにしておいてはならない。一時にはいかないが、続いて切れんよう、唯急いていくものやないが、急かずに放っておいてならない。 (4~6)普請の地所買収という理が現われてきたのも、この事情を打ち出してできて来たことである。何の楽しみもなしに働けるものではない。昇級分離という楽しみがあるから、どうしようかこうしようかと迷ってできん中からも、どうでもやろうという精神が湧いてくる。万事楽しみを与えてやってくれ、楽しみがあるから働くのであり、働くから物事が成り立ち、あとに理が残るのである。義理や役で仕方なしにしたのでは理は残らない。
【摘要】
現在、本部直属教会については「天理教協規規定」に、大教会ならびに本部が特に承認した分教会は直属教会とされ(教規第三十八条)、また大教会については部属教会数五十以上で、よふぼくのうち教人三百人以上を有するもの(一般教会規定第二条)と規定されている。  現在の教会の昇級分離は、上の規定に従い願い出によって本部から許されているわけであるが、おさしづをいただいた時代(明治四十年まで)は、親神の方から、その教会関係者の身上を通して昇級分離を促され、それを契機として願い出て許された場合と、教会の方から親神に昇級分離をお願いして許された場合とある。  明治四十年までに分離を許された教会は七ヶ所あるが(菅原村講は永神講から分離を願い出たがお許しなかった)、そのうち日本橋・湖東・甲賀・水口・大県は前者に属し、中和・島ヶ原は講社に属する。  が、元より分離についての心の治め方は、前者についても後者についても同様であって、以上八カ所(菅原村講も含む)について、おさしづから分離についての治め方の要点を求めれば、次のように考えられる。 (1)教会の昇級分離は、分かれるのであって離れてしまうのではない。この理さえ心に治まれば、いつまでも十分治まる。 (2)本部直属となる十分な教勢のないものを分離するのはいけない。分離を考えるよりも、元へのつくし運びを楽しみに通れ。 (3)教会は皆ぢば一つから許されたもので、部属の教会・信者も、その修理肥えはぢばからするのである。部属先々に花が咲き実がのるのは、元のぢばからの修理肥えがあるからである。 (4)この道はぢば一つから始められたものであって、分教会(直属教会)も支教会(部属教会)も元は一つである。 (5)したがって分教会も支教会も、その理は同じであって、分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (6)教会は皆分教会(本部直属)となる理があるのであって、名称の理を下ろした時から、この事情ははじめかけてある。 (7)分教会に昇級して、なおかつ分教会の部属のままにしておくということは許せない。分教会に昇級を許されたら本部直属としての他の分教会と同じ理がある。 (8)上級と部属が昇級分離事情について、お互いに気が合わんと言っているのは双方に人間心があり、めんめん勝手の心が出るから、うまくいかないのである。 (9)日が経ち月が経ってみたら、なるほどさしづ通りになったという日があるから、さしづ通りに治めよ。 (10)神の方からどうせこうせと言っても、皆の心が親神の心に添い、揃わなければならないから、よく談じ合いをして定めよ。 (11)どうでもこうでもという、みんなの寄った精神の理に昇級分離を許そう。一手一つが神の望みである。互いに心を寄せる頼もしい心の理が、末代の理となるのである。 (12)分離しても、これまでのお互いの道を忘れんよう、兄弟としての心をもって心をもって仲良く通ることが肝心である。

TOP


お道のツール