おさしず検索


一昨日詰所にて梅谷四郎兵衞、諸井国三郎の両名教校の普請の事に付大工奥村忠七と話し合いの際、本席火鉢の所へ御越しになり、神様御入り込みの上、『違う/\しっかりせい/\、明日尋ね出るがよい』との御言葉に付願

さあ/\尋ねる処/\、いかな道理も尋ねるから分かろう。たゞ願通りは許したる。皆それ/\今この一時学校や/\生徒や、それ/\よう/\一つの理。元々何かの理聞き伝え居るであろう。たゞ一条の糸伝えながら、大きいやら、切れるやら、長いやら、深き順序の理、取り損わんよう、この順序の理を聞き分け。いかな事やら何やら、それで惣々の理を拵えて、多くの中から三名頼まれたもの。余儀無く事で好んでするのやあろうまい。この道たゞ一つの理から出来たもの。何よの事も聞き損い、やり損うてなろうまい。運び切らぬ先に、神が止めたのやで。数々そこ/\運び切らぬ先に神が止め置いて、理を聞かすのや。何や彼や派を分けて三名分けて了うたら、傍からどうする事も出けん。皆々寄って面白く頼もしくやってくれ。出け掛けて出けなかったら、どうもならん。そも/\出ける。これを聞かしたら、何よ一つの理一つの心、この順序より成り立つ。どんな事も成り立つ。皆喜んですれば、日々連れて通る。派を分けてこうと言えば、難しい理が起きて来る。一も取らず二も取らず、取り決まるまで留め置いたものや。万事理を取り決まってくれ。許すものは許してある。


さあ/\一時々々ようしっかり言い聞かさにゃならん。今日一日の日、遠く所/\気を養いに出たる。これからそういう心になってはならん。世界々々遠く所より運んで来る。親という。金銭は有る所には何ぼうでも有る。無い所にはすっきり無い。無い中から喰わずでも道は通りて居る。陽気遊山々々々々はすっきりならんで/\。一日の日やめて、教理は、一度の処三度五度も聞かすが道やで。

又、筆一点打って記し掛け
さあ/\これ何よの事分けさゝにゃならん。区域分けにゃならんは、たゞ一条成ったら、教校は世上の理。どんな者も入り込む。一つの処の会計はしっかりと/\。後々つゞまって、これだけしっかり、別派に立って行け。建家一条はやしき中のもの、一つの理添う/\。やれ/\、これもどうせ一つの理に纏まらにゃならん。暫くの間やで/\。道理を以て暫く古き中の理を伝うて来る。これは大先生々々々一つやれ/\。十分心を開いてやれ/\と言うまでは、しっかり取り決まってくれにゃならん。そこで、この理鮮やかに分かるであろう。
【説明】
(1) もともと、この道の通り方については聞き伝えしているであろう。ただ神一条の糸を伝えながら、大きかったり、切れたり、長かったり、人間思案で道の深い順序の理の取損ないのないように、この順序の理をしっかり聞き分けるよう。 (2) この道の仕事は、すべて神の思惑の一つの理からできたものであるから、どんなことも聞き損ないや、やり損ないのないように。 (3) 皆々寄り合って、面白く楽しくやってくれるよう。 (4) すべて神一条の理を心一つにする、その順序によって、すべてはなり立つ。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (5) 世界所々の遠い所から運んでくるのだから、親心をもって接するよう。金銭はある所にはいくらでもあるが、ない所には全然ない。そのない中食わずでも、この道を通っている。陽気遊山というようなことは一切いらん。そんな日は一日の日もやめて、教理を一度のところ三度、五度と、できるだけ数多く繰り返し聞かすのが道の在り方である。 (6) 教会本部と学校は区別しなければならん。両方一筋にしてしまったら、教校は学校という世上のものであるから、どんな者も入ってくる。教会本部の会計はしっかりとしておくように。あとで行き詰まってはならぬから、これだけは、はっきり区別して扱っていくようにせよ。 \n\n (1) 三名が、それぞれ自分の立場を固執して、派を分けるようなことを言うては、そばからどうすることもできなくなる。皆揃って面白く頼もしくやってもらいたい。始めかけてできないようになったらどうもならん。それでは心も、ちぐはぐになってしまう。すべて神意に基づいて一つ心になることである。この順序に従ってこそ、どんなことも成り立つ。皆喜んですれば神が連れて通る。自説を押し立てて言い張れば、難しいことになる。 (2) 教会本部の会計は、しっかりとせねばならぬ。あとで行き詰るようではならぬ。教校の会計は別個の扱いにしておけ、建物はやしき内のものであるから本部でみてやれ。
【摘要】
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。 \n\n  本部の普請についての諭しは、それぞれの普請の規模、構造、用途が異なるので、それについて述べられた神意を一様にまとめて言うことはできにくい。しかし次の点は、一貫しているように思う。 (1) 今一時は皆、仮屋普請である。しかして道普請であり、切り無し普請であるということ。 (2) 親の普請を急ぐより、親心の上から大勢の子供たちの帰ってくるおやしきの拡張、信者詰所の普請を望まれていた。しかし、上田ナライト様の住まいや神殿普請のおさしづに見られるように、機が熟して、神意を達成するための普請は、どんなに財政が困窮した中でも、これをやり遂げるように、きびしく急き込まれている。しかして普請の心構えとして、次のように諭されている。 ① 道の順序を聞き分けることが大切である。つとめ場所が道の普請の掛かり初めであったが、最初は小さいものから出来上がって来た道である。この最初掛かりの精神で通れば、どんなこともできる。 ② つとめ場所は一坪から始まったのであるが、その普請を引き受けると言うたのは本席である。普請に当たって、皆その心になるように。 ③ 普請はまず、木を一本買うことから始まるのである。 ④ 旬をはずさないように。旬をはずせば、できることもできなくなる。 ⑤ 念の入ったことはいらん。木柄に望み好みをするよりも、大きな心で何でもという精神が大切。小さな心ではいずんでしまう。 ⑥ 急いでかかれば十分のことができない。前々から用意を整えておくことが大切。 ⑦ 案じ心を捨て、楽しみという心をもって、勇んでかかるように。勇んでかかれば神が十分働く。 ⑧ 皆心を合わせて、一つ心になることである。派を分けてはならん。 ⑨ 外面を飾るよりも、内面の充実が大切である。「中に綿を着ずして、外に綿を着ては通られん」と仰せられている。

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