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諸井国三郎春以来左の腕障り追々重るに付願

さあ/\尋ねる事情/\どうも長らえて身上に心得ん。いかなる事情であろ。一つ尋ねる。尋ぬるからは、一つ改めて諭し置く。いかな事情も聞き分けにゃ分からん。よう聞き分け/\。どういう事聞き分けるなら、最初という理、改めて聞き分けるなら、分からんではない。道という、一寸聞いて、一寸踏み出して、どういう事であろうという処から聞き分けるなら分かる。しっかり聞き分け。さあ/\確かな書物あって始めたんではあろうまい。確かな書物あって思やんしたではあろうまい。ほんの言葉聞いて運び来たる道。これよう聞き分け。尋ねる身上心得ん。心得ん処尋ねば諭しよ。よく聞き分け/\。一時内なる処第一である。さあ身上何年経っても同じ事/\。そう思うやしょまい。思やしょまいが、なれど日々忘れる事あろまい。又、家内それ/\信徒は又役々聞き分けて、ほんにそうやなあと心に理が治まれば鮮やか。よう聞き分け。世上という理/\/\、これだけ運んだどれだけ運んだという理言わいでも、無けりゃならん/\。皆覚えて居る。他所の事やない、我が事。めん/\運んだ理、どういう大きい財産とも分かろうまい。道という、大き運べば危ない処でも通れる。世上にはどのような大きい事思い付いても、何したんぞいなあという理もあるやろ。そこでめん/\尽して蒔いたる種は生える/\。めん/\あちらにも名称、こちらにも名称出けてある。世上見れば蒔いたる事皆分かる。これ鮮やか。よう聞き分け。身上長らえて堪えられん。満足与える事出けんと言う。そら堪えられんなれど、どのような大きいものでも、一夜の間にでも潰れる事もあろ。何程我がものでも。一代災難聞き分けるなら分かる。めん/\聞き分け。身上不自由、不自由なれど、不自由越したら先は楽しみもある。一時の楽しみではならん。先の楽しみはあろうまい。たゞ、理を心に結ばんよう/\、結んではほどけんで。それ/\よう聞き分け。道というは、末代の理と治めてくれにゃならん。一つ身上不自由どういう事であろ。掛かりて来てから、一時どうしょうと言うたてどうもならん。どうもならん中からたんのう。世上眺めば案じる事要らん。たゞ心やで/\。何でも心いずまんよう。心いずんではならん。これだけ不自由やけど、外の所であったら何としょうと、一時たんのう。皆結び込んだ理、心狂わんよう心狂わんよう/\。狂うてはならん。一人狂えば皆狂う。一つ龍頭という、龍頭が狂うたら皆狂うで。狂わずして、日々嬉しい/\通れば、理が回りて来る。なれど、こんな事では/\と言うてすれば、こんな事が回りて来る。回りて来てから、どうもなろうまい。取り返やしが出来ん。よく聞き分けてくれ。
【説明】
諸井国三郎、山名大教会初代会長。 入信当初のりをあらためて聞き分けるのであるならば、解らないことはなかろう。即ちお道というものを、一寸聞いて、一寸踏みだしてどういうことであろうと思案した最初の処から聞き分けるならわかる。 各自が今迄に運んだ理は、どういう大きい財産ともわからないであろう。お道では、大きく運べば危ない処でも通れる。世間ではどのような大きな事を思っていても、何したのであろうかなあという理(無駄な理)もあるであろう。しかしお道の上にめいめいが尽くして播いた理は必ずはえるのであって、それぞれあちらにも名称、こちらにも名称がでけてある。世間と比較して見れば、お道の上に播いた種は皆生えて来ていることがわかる。世界並のものは、どのような大きなものでも、一夜の間にもつぶれる事もあろう。又どれほど我物といっても、一代の間には災難に遭って失うことがあることを聞き分けるならば、お道につくした結構さがわかるであろう。 なんでも心いずまんように、心いずんではならない。これだけ不自由であるが、世界並であったらなんとしようとこの際に、よくたんのうの心を治めよ。結びこんだ理(お道につくした理)は末代である。こころ狂わんよう、狂うてはならない。一人が狂えば皆狂うようになる。特に竜頭になるものが狂ったら皆狂うようになる。狂わずに日々たんのうしてうれしいうれしいという心で通れば、喜ぶ理がまわって結構になって来る。しかし、こんなことではこんなことではと不足に思って通れば、こんな事がまわって来る。という意味で、この腕障りは、当時山名大教会の道は経済的に大変困難であった。この際に入信当初の気持ちに立ちかえり一段たんのうの心を治めて丹精せよという強いてびきを指示されたのであろう。 \n\n (1) 入信当初の理を改めて聞き分けるのであるならば、わからないことはなかろう。すなわちお道というものを、ちょっと聞いて、ちょっと踏み出して、どういうことであろうと思案した最初のところから聞き分けるならわかる。 (2) 折角信仰しているのに、身上になるのだったら何年経っても同じことでつまらない。そうは思わないだろうが、忘れることはないであろう。だが家内、信者とみんなが本当にそうだとわかれば、病気は鮮やかに御守護いただく。 (3) 各自が今までに運んだ理は、どういう大きい財産ともわからないであろう。お道では大きく運べば危ない所でも通れる。世間ではどのような大きいことを思いついて始めても、何したのであろうかなぁという理(無駄な理)もあるであろう。しかしお道の上に、めいめいがつくして蒔いた理は必ずはえるのであって、それぞれあちらにも名称、こちらにも名称がでけてある。 (4) 世界並みのものは、どのような大きなものでも、一夜の間にも潰れることもあろう。また、どれほどわが物と言っても、一代の間には災難に遭って失うことがあることを聞き分けるならば、お道につくした結構さがわかるであろう。現在身体は不自由かもしれないが、それを通りぬけたら必ず先に楽しみがある。 (5) 何でも心いずまんように、心いずんではならない。 これだけ不自由であるが、もっと苦しまねばならないところの病気ならどうしようと、この際よくたんのうの心を治めよ。結びこんだ理(お道につくした理)は末代である。心狂わんよう、狂ってはならない。一人狂えば皆狂うようになる。特に竜頭である会長が狂ったら皆狂うようになる。狂わずに日々たんのうして、うれしうれしという心で通れば、喜ぶ理が回って結構になってくる。しかし、こんなことでは、こんなことではと不足に思って通れば、こんなことが回ってくる。
【摘要】
腕については、一手一つになって、互いに心をよせてたすけ合うことを指示されている。腕は一本では役に立たない。二本が一緒になってはじめて用がたせるのである。腕を使う場合”二つ一つが天の理”というお言葉を痛感する。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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