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木戸上庄右衞門身上願

さあ/\尋ねる事情/\、身上が長らえて自由という。心がどうでもなあ発散せん、どういう事であろと、長らえて事情ならん/\から尋ねる。尋ねるは、順序諭し置くが、よく事情聞き分けにゃならん。道のためもう十分尽し、内々も一つ理、どうでもと一つ真から作り上げたであろ。もう十分なる処、皆受け取ってある。尽し損にならん程に。運び損にならん程に。この理は取ろと言うても取らゝせん。離そと言うても離さらせん。世上という理眺めて、よく聞き分け。もう万人の中/\世界運び尽し、この理万劫末代の理である程に/\。この一つ理聞かしたい。一時早く、一時身上どうなろうと言うやろ。一時理ある。こんな事と思うな。世上には、どのように有ったて、一夜の間に無くなる者もある。何したんやらという理もあろ。皆見て居る、聞いて居る。よく聞き分け/\。尽した理は末代の理の台と言う。この理どのように思ても無い。容易なる事やない。今の事は何じゃいなあと言うは理なれど、よく聞き分けて、成程と言うは、身上の処一寸と言う。さあ満足与えてくれ。尽した理は何処へも行くのやない。無くなそと言うても無くならせん。世上へ皆報うてある程に。そんなら身上と言う。そうやない。道尽し運んであったら、何じゃいなあという道踏み留まってある。この理楽しんでくれるよう。
【説明】
(1) 木戸上庄右衛門氏 南海会計係。分教会(南海)の負債整理のため財産全部をつくす心定めをしたと言われる(「南海大教会史・第二巻」参照)。 (2) もう十分つくしたところは、みな受け取ってある。つくし損にはならないし、また運び損ということにはならない。この理は取られるものでもないし、離そうと思っても離されるものではない。万人という多くの人の中で、運び尽くしてきた理は万劫末代のものである。 (3) つくした理というものは、どこへも逃げていくのやない。なくそうと思ってもなくなるものではない。つくしただけみな守護してある。道につくし運んであったから、困ったという道にいかないよう踏み止めてある。この理を楽しむように。
【摘要】
教会史を読ませていただくと、ほとんどの大きな教会は一度二度と、厳しい財政的な窮状を通りぬけて来ている。教会が財政的に困難な事情に面して、直接その問題についておさしづを仰ぐということは、非常に少ないようである。しかし、そのようなのっぴきならぬ苦しい事情の最中にあって、身上を通して会長、あるいはその家族、また役員などにおさしづを頂いているのが、かなりある。すなわち、そのおさしづに基づいて理に徹しきるところから、当面する教会の財政上困難な事情も解決を見、また身上のご守護もいただくという場合が多い。本項では、既に取り上げられているおさしづを除いて、いくつか教会史に照らして取り上げさせていただいた。  それらのおさしづの内容を要約させていただくと、 (1) 先案じせずにたんのうして通らせてもらう (2) たすけ合いの心で一手一つに心をつなぐ (3) 大きな心になって将来を楽しんで通る (4) どうなってもという一つの心(踏ん張る心)を治める (5) 運んだ理のこうのうは末代の理であると悟る このようなことが大切であると教えられている。

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