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諸井ろく名古屋へ奉公に出し度き儀願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ子供々々という。まあ一つの事情には、どうしてこうしてというは親の理。又一つ所々、又一つ見習いとも言う。見習いというものは、皆それ/\所々、皆見習いはせにゃならん。見習いは人の心と言う。人の心兼ねて日々心を兼ねて働くと言う。皆精神治まる台。何も知らいでは勝手はっちゃ知らん。そこで後々働く事いかん。そこで皆艱難の事情は、人に満足与えるという理、満足与える理無くばならん。満足与えるは理。そこで艱難十分の心なら、何時なりと委せ置こう/\。
【説明】
(1) 諸井ろく姉 本部員・山名大教会三代会長諸井慶五郎氏夫人。当時十五歳。 (2) 見習奉公は人の心をみることが大切である。日々人の心を汲んで働くことが肝心で、そこにすべて親神の治まる台がある。人の心も考えず、人のことを何も知らないようでは、自分の勝手だけになってしまう。そんなことでは、あとあと将来よふぼくとして働くことはできない。そこをよくわきまえて、すべて自分の艱難苦労は人に満足を与える元となるという理を心に治めるよう。その人に満足を与えるという理がなければいけない。
【摘要】
お道の修業に当たっての心すべき要点は、次のように考えられる。 (1) 道の修業というのは学問を修めることではなく、心の修業をすることである。あらゆる仕事、特に下働きを通して心を磨くことが肝心である。 (2) 道を通る者は、名称の理を戴き、またその理を末代に残す上に、一通りの苦労を味わい、それに値する道を通らねばならない。 (3) 世間一般の難儀、不自由、苦労艱難を味わうことも大切である。これらを通して身の修業を積むのであるが、しかし心は常に、教祖のひながたの心を、わが心として通ることが肝心である。 (4) 道の者は人の心を汲む修業も必要である。 (5) すべて自分の艱難苦労が、人に満足を与える元になるのである。

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