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東分教会上原佐助家族共三島事務所へ引き越し度く、就ては分教会の方は担任そのまゝにして役員代わりて泊まり万不都合無きよう勤める事に決定致し役員だけ揃うて共に御許し願

さあ/\尋ねる事情/\、だん/\事情だん/\事情、それ/\皆々中という心という理を集まりて、その中前々どうやろうなあという理を集まりて、どうやろうなあという理もあった。年限数えてみればどんな事もあった。なれど、そうやなあそうやなあと言う。さあ/\事情第一に治めてやろ/\。又後々皆々後皆精神々々の理を以て運べば、どんな頼もしいと言うてる日もある。さあ/\遠い所やない。一度言うたら二度という。皆々理ある。皆々心治めばどんな理もある。後々皆々の心精神の理によって、どんな花も咲くと言うて置こう。さあ事情許し置こう/\。
【説明】
(1) 前にどうやろうなあという思案に余る日もあった。また年限を数えてみればどんなこともあった。けれどそうやなそうやなというように、和やかに過去を語り草にできるよう事情を治めてやろう。 (2) またあとに皆精神の理をもって運べば、どんなに頼もしい日もある。遠い所ではない。 (3) あとあと皆の心の治め方によって、どんなきれいな花も咲くと言っておこう。事情願のすじは許す。  上原家は明治三十五年一家を挙げておぢばへ引き移った。顧みれば過ぐる三年前の明治三十二年十一月、東分教会敷地内に会長宅を造作する願に「長う住居すると思うな」と、暗におぢば引き寄せをお知らせになってから佐助氏の身上を通し神意の程を教え示され、上原家のおぢば引き移りがじつげんしている(「天理教東大教会史・第一巻」参照)。
【摘要】
親神の深い思惑から身上・事情にお手入れをいただき、道に引き寄せられ、更に一段の成人を望まれると、旬がくるや待ったなしに道一条にならざるを得ない。この道一条の具体的な形として、教会入り込み(住み込み)ということになる。  飯降伊蔵様はじめ、教祖のおそばにお仕えなされた道の先輩先生方は、はじめ道に引き寄せられて遠方から通われるうちに、だんだん道のご用も繁くなり、徐々におやしき入り込みとなられた方が多い。ここには、」その中のごく一部のおさしづを採録したに過ぎないことをお断りしておきたい。  さて伊蔵様は、元治元年入信以来おやしきへ通われた。 「丸九年という/\。年々おお晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来るものもなかった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\髄いて来てくれたと喜んだ日ある。」(明治34.5.25)  飯降伊蔵様は教祖から親子揃うて早くおやしきへ帰ってくるよう、たびたびお言葉をいただかれたにもかかわらず、道のどん底時代のこと、秀司先生ご夫妻への気がねもあり、親子もろとも移り住むことは教祖にご心配をかけることになるとて逡巡せられたという。しかし明治十四年伊蔵様の家族の身上障り(伊蔵様の腰痛、二女まさえ姉の眼、政甚氏のにわかに口がきけなくなった障り)によって、いよいよ心定めせられ、伊蔵様ご自身が櫟本を引き払っておやしきへ伏せ込まれたのは明治十五年三月であった。伊蔵様五十歳、おさと様四十九歳の時である。かくのごとく伊蔵様は入信以来二十年間櫟本から通われ、その後おやしきへ伏せ込まれることになった。本稿の「教会入り込み」事情の中には、伊蔵様のおやしき伏せ込みについては触れていない。  ところで、教会入り込み(住み込み)事情に関しては、 一、 おやしき入り込み 二、 地方教会入り込み の二つに分けることが出来る。また、教会へ入り込みをする立場の者と、それを迎える側の立場とある。  ここで前掲おさしづによって要約すると、次のことが言えると思う。教会入り込みにあたっては、 (1) 一つの理(親神様の思召)を心に治めること (2) 元一日を忘れず将来末代道のご用に勤めさせて頂くという決心を固めること (3) 住み込み人は理を積み重ねなければ、教会に置いてもらいたいと思っても置いてもらえないこと (4) おやしきに入り込ませていただく者は、どれほどの理がある者でも、ぢばの理が心に治まらねば駄目になること (5) 入り込み人を迎える立場の者は、一つの理(親神の思召)を心に治めてそだててもらいたいということ このような点を心して通るよう仰せられているよう拝察する。これは道一条を通る者の心すべき点、すなわちいんねんの自覚とその洗いかえ、まただめの教えたるゆえんを、よく心に治めるという点に帰するものであろう。(金子圭助)

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