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畑林為七五十四才眼の障りに付願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ身上に掛かりていかなものと皆々思う/\。一日の日尋ねる事情は余儀無く事情である。皆道の中の理幾重中皆々籠もりあるであろ。さあ身上に掛かる処、いかなものいかな事と思う。そら思うやない/\。よう聞き分け。この道は大抵で出けた道やない。これまで一日の日にとってどうなろうと思うた日もあろう。この事思えばどんな事も楽しんで永く心持って急いてはならん。年限思わにゃならん。年限の中に、どんな事もこんな事も思う事あろ。そら、思うてはならん。一代と思うてはならん。いかな事も思うて、どんな事も取り直せ。道の初めはどんな事も分からん。道これまでとんと分かりて分からん。皆ならん中から出て来るは理と言う。皆心永く心持ってくれ。身上から尋ねたら、こういうさしづありたと。急えてはならん。生まれ更わり、生まれ更わり/\まで聞き分けて楽しんでくれるなら、長く事であろ。長く理であろ。運んだ理のこうのうは、末代の理と思うてくれ。身上案じる事要らん。目は台と言う。根と言う。どんな事も急えてはならん、急えてはいかん。道は永く心繋ぎ、永く心持って楽しんでくれるよう。身上は案じる事要らん、すっきり案じてはならん。
【説明】
畑林為七、南海大教会二代会長。 この道は、今生だけでなく末代の道である。道の上に運んだ効能は末代の理と思うて将来を楽しんで通れ。目は身上の台であり根であるように、いたずらに御守護の見えることをせかないことが信仰の土台であるという意味で、目の障りは、御守護をせき、先を思い見て、案じてはならぬと指示されたのであろう。当時、為七氏は初代会長のあとをうけ、教会の負債整理の上に非常に心を悩ましていられた。 \n\n (1) 畑林為七氏 南海大教会二代会長 明治三十五年から三十六年へかけて分教会(南海)の屋根修理がおこなわれたが、この普請は心のふしんとなり、分教会内部はよほど治まりがついて、一同勇んで通るようになったが、部内教会の負債は、まだまだ完済するに至らなかった。二代会長は責任上、いろいろ心を遣い、これが目の障りとなっておさしづを仰いだとのことである(「南海大教会史・第二巻」参照)。 (2) この道は容易にできた道やない。一日々々がどうなるかと思った日もあったのであろう。しかし今このことを思えば、どんなことがあっても先を楽しんで、心を長く持って急いではならない。これまで通ってきた年限を思うことである。その中には、いろいろ思うこともあろうが、一代のことと思ってはならない。何事もよく思案して心を取り直せ。 (3) 急いではならない。生まれ変わりの教理を、よく聞き分けて先を楽しむなら、長い理が心に治まる。これまで運んだ理のこうのうは末代の理と悟るよう。目は台である。根である。どんなことも急かないような長く心をつないで、長い心でこの道を楽しむように、との意。目は先案じの心についての諭しであろう。 (1) 畑林為七氏 南海大教会二代会長。 (2) 生まれ更わりの理を、よく聞き分けて、先々長く楽しんで運んでくれるように。運んだ理のこうのうは、末代の理と受け取る。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。 \n\n  教会史を読ませていただくと、ほとんどの大きな教会は一度二度と、厳しい財政的な窮状を通りぬけて来ている。教会が財政的に困難な事情に面して、直接その問題についておさしづを仰ぐということは、非常に少ないようである。しかし、そのようなのっぴきならぬ苦しい事情の最中にあって、身上を通して会長、あるいはその家族、また役員などにおさしづを頂いているのが、かなりある。すなわち、そのおさしづに基づいて理に徹しきるところから、当面する教会の財政上困難な事情も解決を見、また身上のご守護もいただくという場合が多い。本項では、既に取り上げられているおさしづを除いて、いくつか教会史に照らして取り上げさせていただいた。  それらのおさしづの内容を要約させていただくと、 (1) 先案じせずにたんのうして通らせてもらう (2) たすけ合いの心で一手一つに心をつなぐ (3) 大きな心になって将来を楽しんで通る (4) どうなってもという一つの心(踏ん張る心)を治める (5) 運んだ理のこうのうは末代の理であると悟る このようなことが大切であると教えられている。 (1) 人間は、この世に今まで幾度となく、生まれ更わり出更わりして来ているもので、前生のいんねんを自覚することが大切である。 (2) 自分の身上にあらわされていることを見、あるいはまた世上の人々の姿を見て、前生のいんねんをさんげしたんのうの心を治めて通ることが大切である。 (3) この世に生まれかわってくるのも、親神の守護による、誰が誰の生まれ更わりであるかは親神のみが、すべてご存知である。お知らせいただいているところから、親戚または身近なところに生まれかわってくるものと悟らしていただくことができる。 (4) 人間は生まれ更わりによって、この世に永遠に生かしていただくことができる。ここに末代かけての信仰の有難さと喜びを味あわせていただくことができる。

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