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平野楢蔵身上眼なり脳が上ぼせ耳が聞こえ難くう御座りますという処の願

さあ/\尋ねる/\。さあ何でも彼でも尋ねにゃなろうまい/\。身上堪えられんという事情、いかな事であろう、どういう事であろう、と思う。尋ねる/\。尋ねたら又一つさしづに及ぶ。皆よう聞き分けにゃならん。どういうものでこういう事になる。どうもならん。いろ/\思う中に、又さしづは味のあるものと思う。その味のあるさしづ、しっかり聞き分けにゃならん。よう聞き分け/\。年来々々何年後々々々一つ事情、心に一つ/\知らん者あろうまい。生きて居る者は皆知って居る。どんな事も知って居る。これから諭す。よう聞き分け。一時初めは分かり難ない。たゞ一つ蓋を開けたら何がある。蓋が取ったら、何があるやら分からなんだ日があった。世界一つから引き比べてみよ。皆蓋取ったら、どんな者も分かる。まあ珍しい処から一つ/\名が下り名が出来、所々それよりどんな事も日々聞きて居る。小さい処大き取れ。大きい取れば、よう聞き分けて、真実答え無くばならん。日々尽した運んだ理あればこそ、あればこそ、姿ちょい/\見えてあろう/\。中に苦しみの道通って居る/\、運んで居る。これ歎くやない、悔やしむやない。どういう処見えるやら、もう危ない所怖わい所が楽しみ。危ない所まさかの時の台という、俎板という。どういう事もせにゃならん。たゞはい/\ではなろうまい。俎板という台持ってくれ。一人から一人のさしづやない。皆々その心に台という心治めてくれにゃならん。身に苦しみは言うまで。又道のため国のため今立て合い、どういう事に成るもこういう事に成るも、一つ俎板という事聞き分け。これだけ諭したら、どういう事に悟ろと、どういう大き理出そうと言うても、成る。歎いた事ではならん。よう聞き分け。いつ/\さしづにも一日の日と言うて及んだる処ある。これ聞き分け。艱難の道通りた理は、皆見える処働きた理という。身上は案じる事要らん。案じる事要らんで。長い道筋一つの処、始め掛けたる処から、艱難の道という。世上にはいろ/\言う者あろう。言う処無くば、一つ分からせん/\。小さい処は、誰の目にも掛けるものやない。日を伝えて居る。あれやこれやと敵無くば行かりゃせん。どういう事あるやら分かりゃせん。今日のさしづいつに出るやら、分かりゃせん/\。この心持ってくれにゃならん。

押して、台と仰せ下さるは、分教会の事でありますか、本部の事についてゞありますかと願
さあ/\分からにゃ、尋ねにゃ分からん。よう聞き分け。合図立て合いと言うたる、合図立て合いと言うたる。善い事にも又悪い事にも、取らにゃならん。どんな合図立て合いあるやら、年来に伝えたる/\。又手も付けたる。その日来たら、どうでもこうでもと言う。その時一人台という。どういう事なら俎板という。どういう事もこういう事も、その上で分かる。これ一つ、しっかり聞き取りて置け。
【説明】
平野楢蔵、郡山大教会初代会長。 河内恩智村の楢蔵というところから「恩智楢」と呼ばれた博徒で、”恩智楢の通った後は青草もしぼむ”と言われた程、獰猛と傲慢は、有名であったが、明治十九年正月、博打の最中絶命したところ、たすけて頂いたことから入信。何年か以前に不思議な事情から入信したことを知らぬものはない。深い因縁を積んだ日もあったのに、親神様の御守護で、その後名称の理を許されて、尽くし運んで理の姿はちょいちょい見えてあるが、その中に苦しみの道を通っていた為に、なげきくやんでいるが、しかしたすけて頂いた時の低い心になり、将来を楽しんであぶないときまさかの時の台となって通れという意味で「のぼせ」は低い心になって尽くし運べと指示されたのであろう。頭の患いは先案じするな、耳の患いは、よくおさしづを聞けという指示であろう。当時、お道一般に困難であったが、特に、郡山の道は困難であった。 \n\n (1) この頃がお道一般に困難であったが、とくに郡山の道は困難であった。郡山部内の教勢は沈滞し、しかも大教会は十数万円という多額の負債に苦しまねばならなかった。この頃、平野会長が激しい脳病に襲われた時のおさしづ(山本久二夫・中島秀夫著「おさしず研究・下巻の二」参照)。 (2) お前はずっと以前から恩智楢といって人に知られていた。その当時のことは、当時から生きているものは皆知っている。 (3~5)道が始まった当初は全く、どうなるのかわからないような状態であった。しかし、この道を通れば必ず結構と思うしるしを見ることができる。一つ一つ順次、名称の理が各地におろされているのは、日々真実をつくし運んだならこそである。今もお前たちは苦しみの道を通っているが、決して嘆くのでない。  真実をもってつくし運んだならば、危ないところ、こわいところにも本当の楽しみを見ることができるようになる。そのつくし運びが、危ない時、まさかの時に不思議なたすけを受ける台となる。  どういうこともせねばならない。ただはいはいでなく、身をもって鋭い刃を受けるまな板となる決意も固めてほしい。これは一人だけのさしづでない。 (6~7)これだけ諭したならば、今の身上をどのように悟ろうが、またどれほど大きい心定めをしようが、必ずその通りになってくる。苦労難儀の道を通ってきた、その理は必ず何らかの形で見えてくる。それこそが本当に、自分か働くことによって与えられた理なのである。 (8) あれやこれやと敵があればこそ、心もふるい立つ。どのようなことが現れてくるかわからないが、このさしづをしっかり治めた心を持ってもらいたい。 \n\n (1) おさしづには「刻限」と「伺いに対する指図」と二種あると教えられている。そして伺いに対するさしづの中に、刻限の話をすることがあることもことわられている。このおさしづも平野楢蔵氏個人に対するものでなく、当時の人々に対する刻限のお話とみられる。 (2) ただ現われて来たことに対して、言いなり放題に順応しているだけではいけない。事情を受けとめて解決するという精神がなければならない。爼板とも台ともなる、という心を持ってほしい。このことは、伺った者一人にだけしたさしづではない。皆の者が全部それぞれの心に、台という心を治めなければならない。身上の苦しみなど言うまでもない。
【摘要】
頭についてのおさしづを要約すると、人間思案(特に高慢の心)を捨て、親神の思し召しに素直にそいきり、幾重の中もたんのうして通れという意味のものが多いように思う。一言にして申せば、理の考え違いを戒めていられるように思う。考え違いを引き起こすもとは、めいめいの欲の心であり、何について理の考え違いをしたかは、その人のいんねんによるのである。身上かしもの・かりものの理をよく思案し、教祖のひながたをしのび、自分がおたすけいただいた最初の道すがらを忘れずに通れば、考え違いがなくなり、日々たんのうの心がおさまり、陽気ぐらしができるであろう。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である \n\n  世界の事情という言葉は、いろいろの意味に用いられる。一般的に言えばうちとせかいという対照において、対外的問題として対処すべき事情である。しかし、ここでは、もう少し限定して、世界にあらわれてくる大事情といった意味で用いる。  世界の事情は、親神のざんねんの現れとして、自然現象と社会現象とに分けて見られる。このうち自然現象については、この教理研究では「教会生活の出来事」および「教政」で研究されている。  社会現象については、いろいろの事情が見られるように考えられるが、ここでは戦争に関するものと、世界事情に対処する心構えを教えられた、とみられる刻限のお諭しの若干を挙げた。 (1) この世界を治めているのは親神であって、その思惑は神一条の道・たすけ一条の道(つとめやさづけ)によって成就されていくのである。 (2) 神一条の精神によって事情を治める。 (3) 心のほこりを払い、心を澄まして親神の思召しのままに対処する。 (4) 事情は旬によってあらわれるので、その旬の理によって事情を見る (5) どんな困難なことが起きても、爼板とも台ともなる、という大きな心構えでなければならない。そのためにはたすけ一条ということを、よく理解する必要がある。 (6) 事情をいかに見るか、いかに対処するかということについては、おふでさきに書いてある。

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