おさしず検索


増野道興昨年東京方へ学問修行に出ました処御詫び申し上げ、本年も再度修行に上京致し度く、もっとも在京中に脚気病悩み帰宅後全癒、十五日前に左の肩怪我致し居り、再度上京の儀御許し願

さあ/\/\尋ねる事情/\、さあ/\いかなる事情も尋ねにゃ分からん。さあさあ人々という小児という、小児にも数無き小児。どうしてくれこうしてくれ、どうこう一つ心というありて親の心という。どう言うたてこう言うたて。なれども、これよう心得にゃ分からんで。さあ/\何処にどうして居るも同じ事、無理強ってと言うや、やってもよい。なれども、これ一つ身上に知らしてある。何よの処もどういう事も、さあ行きたいと言うや、やってもよい。何よの事心に十分立ち寄りて掛かる処、行く事要らんとも、行けとも、そりゃ言わん。なれど身上に不足なったら戻らにゃならん。又一つ事情治まりて治まらん。小児一つの理よう聞き分け。さしづ一つをやの心と言う。事情先に一つ理であるという事、諭してやってくれるよう。
【説明】
増野道興、本部員。 何処にどうしているも同じ事であるから、無理にたって東京に行きたいというならばやってもよいが、しかし身上にしらしてある。子供(道興)は天の理をよく聞き分けることが大切であるが、おさしづは親の心にする。在京中に脚気病悩み帰宅後全癒したことさとしてやってくれるようにという意味で、脚気については、親許に帰ることをしじされたいるように思われる。
【摘要】
足は歩くものである。従って、足に関するおさとしが、信仰の道を、即ち神一條、たすけ一條の道を踏みはずさずに、勇んで通ることに関したものであることは直ちにうなずけることでもあろう。而して勇んで通るにはいんねんの自覚が大切である。いんねんを自覚して通る心は、たんのうの心ということが出来る。たんのうの心に先案じがあってはならぬ。又たんのうは単に自分がたんのうするだけでなしに、相手にもたんのうしてもらうようになってこそ、本当のたんのうということが出来る。先案じせず、日々をたんのうして、理をふみはずすことなく、一條に信仰の道を歩くところに、足の病をおたすけいただく根本があろう。理の運びを速やかにする時、速やかに足の病をおたすけいただく御守護がある。

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