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富田伝次郎妻たき六十才身上願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\身上さあ一時事情一つ理尋ねる。尋ねるには、もうよく/\の理であろう。尋ねるは、よく/\の理であろう。どうでも成らんどうでも行かんと思うは、日々心という、一つ理尋ねる。身上不足成る。何故こう成ると日々思う。一つ尋ねるから、何かの理も諭するによって、よう聞き取らにゃ分からん。さあ/\この道という、容易であろうまい。前々長く間では、いろ/\一つの理。年限という理思うて、よう/\の理成る成らん、思うだけの心は尽してある。日々働いてある。日々尽した理は、日々の理で受け取りてある。尽せば尽すだけの理ある。又身上という、心大きい持ってくれねば、発散出来ようまい。しっかり聞き取りてくれにゃならん。さあ道という、年来に重なり/\、年限の理より出来た道である。さあ何よの事も世界に映しある。働いた理は金銭ずくで買えるか。さあどう成る。さあ心という、働いた理世界に現わしたる。身上に不足ありてどうと、早くなあと思う。さあ/\身上前生人無くなり、こう成るどう成る。前々には可愛なあ、又候この理心に掛けず、先ずこれから何でもと思う大き心を持ってくれ。さあ/\何時とも分からん、というような心を持たず、この心に治めてくれ。成っても成らいでも、どうぞしてもという、この心将来末代という。心に楽しんでくれ。満足心に与えてくれ。日々に弱るなあという心を持たず、楽しんでくれ。人間という、一代切りと思うから頼り無い。なれど、そうやない。末代という。この理金銭ずくで買われん。これ世界に映しある。成ろう言うて成るものやない。天然という、この心を持ってくれ。さあ一時どうとは無い。なれど、早く発散々々。嬉しいなあと、これを早く心に。この理、発散して治めてくれるよう。
【説明】
(1~2)さあこれから何でもどうでもやらせてもらうのだ、という大きな心を持ってほしい。もう何時息を引き取るかもしれぬ、というような寂しい心を持たずに。成っても成らいでも、どうでもこうでもという心は、将来末代に受け取るのだから、それを楽しみにしてほしい。その満足を持ってほしい。人間は一代で終わりと思うからたよりないので、そうではない、末代なのだ。この理は金銭では買えない。どういう心定めをせよ。と言うのではないが、寂しい心は発散させて、末代の理に受け取ってもらってうれしいなあ、という心を早く持つように。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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